には、二百七十五を二百三十五と改めてある。それで其の數を當つたものがあります。當つて見ると二百二十八首しかなかつたと云ふ。さうして見ると大師が見られた本は二百七十五首と云ふ元の儘であるにも拘はらず、今日は其の中の五十首ばかりは失つて居ると云ふことが分ります。兎に角今日の河嶽英靈集は殘缺した本で、元の儘の本ではないと云ふことが分ります。是は唯だ一の篇序文を文鏡祕府論の中に引いて置かれた爲に、さう云ふ事が分ります。
それからもう一つ斯う云ふ事があります。是は矢張り今日では本もまるで無くなつて居るのでありますが、前に申しました元兢と云ふ人に、詩髓腦の外に大切なものがあります。それは古今詩人秀句と云ふので、昔から當時までの人の旨い句を拔き出したものであります。それは新唐書の中に、元兢と云ふ人の古今詩人秀句と云ふものが二卷あると云ふことが載つて居ります。日本國現在書目にも其の書名は載つて居るが、今日は傳はつて居らぬ。處が大師の文鏡祕府論の中に、古今詩人秀句の序文だらうと云ふ非常に長いものが載つて居ります。それは上古から唐の初めまでの詩と云ふものを、一々批評した長いものが書いてある。それが此の文
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