悉く是等の本は絶滅して、今日は其の人の名も分らず、其の本の名も分らなくなつたのでありませう。然るに大師が文鏡祕府論の中に合せて一つに纏めて、是は誰某の議論、是は誰某の議論と云ふことを書いて置かれたので、是等の書籍の名も分り、著述者の名も分り、もう一つは唐の時代の詩の格式は如何なるものであつたかと云ふことも分るのであります。文官試驗としても大切な規則があり、又當時詩と云ふものは音樂に掛けても歌はれると云ふのは、どう云ふ法則で歌はれるかと云ふことは、今日大師の文鏡祕府論があつて、始めて分るのであります。支那人でも之を今日手掛りにするのであります。即ち其の手掛りは弘法大師の文鏡祕府論に依る外何の手掛りもありませぬ。此の點は文鏡祕府論の重大な價値のある點でありまして、千二三百年前の、重くるしく云へば詩の作り方、碎けて云へば其の當時之を俗歌俗謠と同樣、歌に唄つた音樂の仕方と云ふことが、文鏡祕府論で分るのであります。祕府論は僅に六册の本でありますが、非常に大切な本であると云ふことは、是れで御分りにならうと思ひます。
 勿論是は弘法大師が自ら序文の中に自分で御斷りになつたに就いて申しましたゞけで、其
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