ると云ふことが分るのみならず、今日殘つて居る皎然の詩式には、大師が申します當時の詩の作法、即ちどう云ふ聲はどう云ふ所に用ひてはならぬと云ふやうな細かいことは一つも殘つて居らずして、大體の批評のやうなことばかり殘つて居る。それで皎然が書いた詩の作法は、矢張り文鏡祕府論の中に殘つて居る。それは皎然が詩議と云ふものやら、又いろ/\の批判をしたことを、大師は此の文鏡祕府論に引かれて居りますから、それで皎然の詩式の大要は、今日でも幾らか分るやうになつて居ります。
 其の次に申しますのは崔融と云ふ人の本でありますが、果して崔融かどうかと云ふことも實は明かには分りませぬ。併し大師の文鏡祕府論の中を繰つて見ると、其の中に崔融と云ふ人だらうと思ふことがあります。此人には唐朝新定詩體と云ふ著述があります。即ち唐の時に文官試驗をするのに、どう云ふ體でもつて詩を作らなければならぬと云ふ規則を著述したものであります。或は之を新定詩格とも書いて居ります。大師は矢張り文鏡祕府論の中に崔氏の唐朝新定詩體と云ふものを引いて居られます。さうして其の名目は隋書の經籍志にも、新唐書の藝文志にも、舊唐書の經籍志にも無いのが、日
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