年の頃からして明治十七八年頃まで東京の支那の公使館に來て居つた男で、楊守敬と云ふ人があります。此の人は今でも支那に居ります。先頃支那に騷亂のあつた時、武昌に居つたのが、今は避難して上海に居ると云ふことでありますが、今は七十幾歳かの老人であります。其の人が注意を致して、自分で著はした日本訪書志と云ふものに書いてあります。谷本博士も其の事を仰つしやつて居られますが、兎に角注意して居ることは事實でありますが、楊守敬も其の當時綿密に讀んだかどうか分りませぬが、兎に角珍本であつて、是は唐の時の詩の法則を知るには、大變貴重なものであると云ふことを知つて居るに拘はらず、其の法則と云ふものは、細々しいことばかりを書いてあつて、重大なことではないと云ふことを言つて居る。兎に角極めて細かな規則を規定してあつて、さうして何處にどう云ふ字を餘り入れてはいけないとか、どう云ふ字を入れゝば宜いとか云ふことを言つてありますが、管々しい細かいことには相違ないが、之を詰らぬことゝは言はれない。唐の時には現に詩の規則と云ふものは、さう云ふやうにありまして、其の規則にあるものは採られる。規則にないことは採られぬ。採る採らぬ
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