れは妙なものでありまして、大師がさう云ふ風に珍重して用ひられた本は、其の當時にはそれではどれだけにそれが用ひられて居つたかと云ふことを知らなければなりませぬ。大師が用ひられた本が、其の當時餘り行はれて居ないものであつたならば、今日殘つて居つても大切なものではありませぬが、大師の使つたものが其の當時にあつても重んぜられた本であつたとすれば、大師の文鏡祕府論と云ふものは、今日に於て非常な價値を有つて居るものと謂はねばなりませぬ。さう云ふ原本の價値を調べると云ふことになると、私共のやうな專門のことを致します者には、いろ/\調べ方があります。それは大體どう云ふものがあるかと云ふことは、今日でも分ります。それで實は斯う云ふ事を知らぬと云ふと、折角文鏡祕府論と云ふものゝ珍本だと云ふことは知つても、存外本當の價値を發揮し得ずに仕舞ふことがあります。それは既にさう云ふ例が實際あるのであります。此の文鏡祕府論と云ふものは珍本であつて、唐の時の詩文の法則を書いたものであると云ふことを注意したのは、勿論日本でも注意して居る人が無いではありませぬけれども、是は支那人が矢張り注意いたして居る。支那人で明治十三四
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