弘法大師の文藝
内藤湖南
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)入《はい》り過ぎる
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)殷※[#「王+番」、第4水準2−81−1]と云ふ人が
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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弘法大師の事に就きましては、年々こちらで講演がありまして、殊に今日見えて居ります谷本博士の講演は、私も拜聽も致し、又其の後小册子として印刷せられましたものも拜見いたしました。それで先づ弘法大師に關する總論と申しますか、兎に角弘法大師に關する全般の觀察に就きましては、殆ど谷本博士の講演に盡きて居りますので、其の外に別に新らしい事を見付け出し得ようと云ふことはありませぬ。其の後矢張り同僚の一人松本博士などからも、何か密教に關する講演がありましたさうです。それは私共一體分りませぬことでありますから、是はどうせ讀んでも分らぬと思つて、餘り拜見も致しませぬ。それから又是はこちらで講演をせられたものではないのでありますけれども、印刷物として配布せられたのに、幸田露伴博士の何か小册子がありましたやうで、是も弘法大師の文學上に關係したもので、是も一通りは拜見いたしました。何れも皆結構なもので、何も其外に私が今日新らしく申上げようと云ふことはありませぬ次第でございます。
所で何の研究でもさうでありますが、初めに總論のやうなものが出來ますと、それからあとの研究は段々、自然細かい所へ入り過ぎて仕舞ふ。其の細かい研究と云ふものは、研究者本人に取つては隨分相當に面白いことがあると思ひましても、一般の人が聽きますと、何か研究者自身が一人だけ分つたことを言つて居るやうになりまして、餘り興味が多くないと云ふやうなことになる傾きがあります。それで弘法大師の文學上の事に就きましても、既に大體の總論に於きましては、谷本博士の講演があり、又幸田博士の文學上に對する意見も發表せられて居りますから、其のあとで私が何か申さうとすると、自然どうしても一部分の細かい事に入《はい》り過ぎるやうな傾きになるのは免がれませぬ。勿論初めから其の覺悟で何か細かい一部分の事を申上げて、それで御免を蒙らうと云ふ覺悟でありますので、今日御話を致しますのも、弘法大師の文藝とは申しましても、極く其の中の一部分、詰り大師の著はされた書籍に就いて、それの批評と申しますやうな事を申上げるに過ぎませぬ。勿論それ等の事も既に谷本、幸田兩博士の研究に於て、重もなる點は發表されて居りますので、私が申上げるのは段々枝葉に亙ると云ふことは免がれませぬ。どうぞ其の御積りで御聽きを願ひます。餘程是は聽かれる方々に取つては御迷惑なことであらうと思ひますけれども、兎に角弘法大師の盡力されたことを此處で細かに申上げる次第でありますから、私に對する御勤めでなく、宗祖弘法大師に對して御勤め下さる御心で暫く御清聽を願ひます。
それで弘法大師が著はされた書籍の中の一二のものに就いて批評を致して見ますと、弘法大師でも文藝上の著述が澤山ある次第ではございませぬ。是は谷本博士の講演の中にも、隨分いろ/\御骨折りになつて研究せられたものでありますが、其の一つは文鏡祕府論であります。此處に持つて來て居りますが、是は弘法大師のことに御注意になつて居る方は、どなたでも御承知でありますが、文鏡祕府論と云ふ本があります。此の本に就きましては谷本博士も大變に御骨折りになつて、研究せられて居りますので、一つはそれ等の事から私も刺激された傾きもあります。それから又私は元來此の本に對して存外多少の興味を有つて居る點もあります。それ等の點からして時々私は此の本を開いて見ることがあります。其の度に時々氣の附いたことをチヨイ/\と本の鼇頭《あたま》へ書入れを致して置いたり何かします。詰り今日どう云ふ事を申上げようかと困つた揚句、之を開いて見て、かねて調べ掛けたことがありますので、それから少しばかり端緒を得て調べたことを、今日申上げようと思ひます。所が是は話の面白くない割には存外話が込入つて居りまして、隨分御聽きにくからうと思ひますが、どうか暫く御辛抱を願ひます。
此の文鏡祕府論と申しますのは、勿論弘法大師が當時の漢文を作り、詩を作ります者の爲に、其の規則を書きましたものであります。規則と申しましても、是も谷本博士の御講演の中にもありましたが、弘法大師が自分で御作りになつた規則ではありませぬ。其の當時支那に於て行はれて居ります詩文の法則となつて居るものを集めて、いろ/\取捨をされて書かれましたものであります。弘法大師が文鏡祕府論の
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