序文を書きますに就いても、其の事を明かに御斷りになつて居ります。弘法大師が御若い時に、其の當時京都に大學寮といふものがありまして、此處で勉強されたといふことでありますが、其の時分に伯父さんか何かに當ります阿刀某と云ふ人、其の他大學の諸博士に就いて漢文を勉強された。又其の後入唐をして居られる時に、さういふ事を注意されたと云ふことを御斷りになつて居ります。其の際に詰りいろ/\其の當時行はれて居つた詩文の法則の本を御覽になつたものと見えます。其の結果それを集めて皆んなの爲になるやうに、俗人でも坊さんでも、兎に角詩文を作るものゝ便になるやうに、一つの本を作つたら宜からうといふ考が出られたものと見えました。所が色々なものが澤山出ると、いろ/\本に依つて相違があり、又同じ所があり、隨分面倒である。本は非常に澤山にあるけれども、其の中肝腎のことは大層少ない。それで自分の病氣として、さういふものを見ると、其の儘打捨てゝ置いて、其の通り書くといふ氣にはなれぬので、兎に角いらぬ所は省いて、宜い所だけを殘して置く、即ち添削をしたいといふ考になつて、それで段々重複して居る所は削つて、重もなる肝腎の所を殘して、文鏡祕府論といふものを作つたのであるといふことを言はれて居ります。是は支那から歸られてから幾年ぐらゐ經つて之を作られたかと云ふことははつきり分りませぬが、後に文鏡祕府論をもう一つ簡略にして、文筆眼心抄と云ふ本を書いて居られます。それは弘仁十何年かに之を書かれたといふことは分つて居りますから、文鏡祕府論は其の以前に出來て居つたと云ふことが分ります。
 先づ之を作られた由來は大體そんなものでありますが、之を作るに就いて弘法大師はどう云ふ書籍を重もに參考されたかと云ふことは、谷本博士が苦心をされた結果、其の種本とも謂はれるものを擧げて居られます。それは即ち大師の詩文集たる所の性靈集の中に王昌齡と申します人、盛唐の時分に有名な詩人で、絶句に巧みであつた人があります。其の人の著はした詩格と云ふ本があります。即ち詩の格式であります。それを土臺にして文鏡祕府論を書かれたらうと云ふ御考へであります。私も大變面白い御考へと思つて、それから段々調べて見ますと、勿論此の王昌齡の詩格と云ふものは、大師の文鏡祕府論の種本になつて居るやうでありますが、其の外にも隨分いろ/\な本を參考されて居るやうであります。所でそれはどう云ふ事を參考されたか、その本といふものはどう云ふ價値があるかと云ふことに就いて、少しばかり申して見たいと思ふのであります。
 それは矢張り大師は此の文鏡祕府論を書かれる時に、其の序文に於て既にどう云ふ本を參考したかと云ふことは、大方御斷りは言つて居られます。大師の祕府論の序文の中に斯う云ふことを言つて居られます。
『沈侯、劉善が後、王皎崔元が前、盛んに四聲を談じて爭うて病犯を吐く』
といふことがあります。唯だ斯う申しては分りませぬが、沈侯と云ふのは人名であります。南朝の齊の時からして梁の朝まで掛けての間に沈約と云ふ有名な學者がありました。此の人が支那で四聲と申しますものゝ發明者と言はれて居ります。四聲と申しますのは、詩を作る方はどなたでも御存じですが、平上去入と云うて、平聲と云ふのは平らかな聲、上聲と云ふのは上げる聲、去聲と云ふのは下げる聲、入聲と云ふのは呑む聲、斯う云ふ四つに聲を分けて、有らゆる文字を其の四つの聲に嵌めて、さうして研究することになつて居ります。それは南齊の時分、永明年間からして、此の沈約などが唱へ出して、盛んに行はれたので、之を用ひた詩を永明體と申して居りました。沈侯とはこの沈約のことであります。それから劉善とありますが、これは劉善經の經字を略したのでありませう。それは後に委しく申上げる場合になると分ります。此の人は傳記は分りませぬが、其の人の著述のことは分つて居ります。其の人から後、王皎崔元、是は四人のことを言ひます。王と云ふのは前に申しました詩格を作つた王昌齡であります。皎と云ふのは唐の時の坊さんで皎然と云ふ人であります。此の人の作つた詩式といふのが、今でも其の中の一部分、ちぎれちぎれとなつて殘つて居るものがあります。それから崔と申しますのは、是は崔融と云ふ人だらうと思ひます。此の人の著述には矢張り詩文の格法を書いたものがあります。元と云ふのは元兢と云ふ人であります。此人にも矢張り詩の法を書いたものがあります。是等は皆唐の人であります。それで沈侯、劉善からして以後、王皎崔元までの間に、いろ/\四聲の議論が盛んであつて、さうして爭うて病犯を吐くと書いてありますが、四聲といふものは詰り謂はゞ日本で申せば唄の調子のやうなものであります。唄を唄つても調子が間違ふと音樂に掛らない。それで音樂に掛るやうにする爲に、いろ/\調子に就いて議論がありま
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