す。詩といふものは昔は歌つたものでありますから、之を歌へるやうにする爲に、此處を斯う云ふやうにしては歌へなくなるとか、此處は上げるとか下げるとかしないと、詩は歌へないと云ふ規則があります。其の規則をやかましく言つて、此處で斯う云ふやうにしてはいかぬとか、春雨の替歌なら春雨の替歌で、斯う云ふ調子にしなければならぬと云うて、規則を説いたものがあります。さう云ふ本があるので、それからして採つたと云ふことを茲に御斷りになつて居る。それでは今申しただけかと申しますと、まだ外にもありますけれども、兎に角此の六人の本を大師は參考にせられたと云ふことは明かに分つて居ります。
所で其の大師が參考せられたと云ふことに就いてどう云ふ價値があるかと云ふことであります。是は面白いことには大師が參考せられた本の多くは、今日傳はつて居りませぬ。大抵は皆絶滅して、無くなつて居る。それで大師が之を參考して文鏡祕府論に採つてあるが爲に、其の人等の本の一部分と云ふものは、幸ひにして傳はることを得て居るのであります。詰り斯う云ふ人等の本、即ち今日無い本を、大師の文鏡祕府論で今日見ることを得ると云ふことになつて居ります。併しそれは今日どう云ふ所に價値があるかと云ふことを申して見ますと、今申しました詩の法、詩の調子、絶句なら絶句、律なら律、古詩なら古詩と云ふものは、是はどう云ふ風に作るべき法則のものか、それからしてどう云ふ所を間違ふと、是は詩の規則に嵌らぬものかと云ふことは、是は面白いことであります。それで今日に於て、唐の時並に唐以前の詩の法則を見ると云ふことになると、此の文鏡祕府論より外に、今では良い本が無いと云ふことになつて居ります。詰り詩と云ふものゝ沿革などを考へて見る、日本でも歌の沿革を考へて見る。今日でもいろ/\古い歌を詠む人もあり、新體の歌を詠む人もありますが、日本の歌が今日に至つた沿革を考へて見ると、萬葉集なら萬葉集の時代から、古今集とか、其の他三代集から段々今日に至つた由來を知る必要が出て來る。支那でも其の通りであつて、詩と云ふものが其の後も盛に行はれて居るが、唐の時の詩はどう云ふやうに出來て居つたか、唐の時の詩はどう云ふ規則で作つたのであるか、其の時の音律に合ふやうに出來て居つたのであるかと云ふことを、今日から之を知りますには、どうしても其の當時の人の詩の規則を書いたものを知らなければいけませぬ。所がそれは支那では傳はつて居りませぬ。支那で現在傳はつて居る本と云ふと、宋の時に矢張り坊さんでありまして、冷齋夜話、是は能く人が知つて居る本でありますが、其の本を書いた坊さんがあります。それは洪覺範と云ふ坊さんで、其の人の書きました天廚禁臠と云ふ本がある。是も餘り人の見ない本でありますが、それに宋の時の詩の法則が書いてあります。所がそれはどれだけの役に立つかと云ふと、一方詩と云ふものは、宋の時には既に音樂に掛りませぬのです。唐の時までは音樂に掛つて、歌ふことが出來た詩が、宋の時には既に音樂に掛らぬやうになつて居る。それで其の時にありました法則と云ふものは、是は音樂に掛るだけの價値のある法則ではありませぬ。それ以前の法則と云ふものは、支那には一つも殘つて居らぬ。支那は詩の本國でありますが、唐以前並に唐の時の詩の法則を書いたものは一つも殘つて居りませぬ。所が文鏡祕府論がある爲に、それが分るのであります。
文鏡祕府論に引いてある本は、上は梁の沈約の本から、下は唐の時の本まで引いてある。それで又それ等の本を調べるに就いては、私共の專門の學問をする者は、いろ/\調べる道具があります。それは妙なものでありまして、大師がさう云ふ風に珍重して用ひられた本は、其の當時にはそれではどれだけにそれが用ひられて居つたかと云ふことを知らなければなりませぬ。大師が用ひられた本が、其の當時餘り行はれて居ないものであつたならば、今日殘つて居つても大切なものではありませぬが、大師の使つたものが其の當時にあつても重んぜられた本であつたとすれば、大師の文鏡祕府論と云ふものは、今日に於て非常な價値を有つて居るものと謂はねばなりませぬ。さう云ふ原本の價値を調べると云ふことになると、私共のやうな專門のことを致します者には、いろ/\調べ方があります。それは大體どう云ふものがあるかと云ふことは、今日でも分ります。それで實は斯う云ふ事を知らぬと云ふと、折角文鏡祕府論と云ふものゝ珍本だと云ふことは知つても、存外本當の價値を發揮し得ずに仕舞ふことがあります。それは既にさう云ふ例が實際あるのであります。此の文鏡祕府論と云ふものは珍本であつて、唐の時の詩文の法則を書いたものであると云ふことを注意したのは、勿論日本でも注意して居る人が無いではありませぬけれども、是は支那人が矢張り注意いたして居る。支那人で明治十三四
前へ
次へ
全13ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング