ので、纏つたものゝ出來ましたのは、後漢の末に許愼の説文と云ふ本が出來まして、それが大變に重大な著述であつて、今日でも古い字引のことを研究する時は、誰でも此の説文を見なければならぬことになつて居ります。其の後に段々字引は出來ましたが、其の後最も盛んに行はれた字引は、梁の顧野王といふ人の玉篇と云ふ字引であります。是は其の後いろ/\變化をして、日本では普通詰らない字引にまで玉篇といふ名前が附いて居るが、是は顧野王の玉篇が盛んに行はれた結果であります。説文といふ本は今日では昔の儘とは言はれませぬが、大體昔の體裁で保存されて居りますが、此の玉篇は今日其の儘で保存されては居りませぬ。玉篇は三十卷でありますが、其の中四卷半ばかりは昔の體裁のまゝの者が日本に遺つて居ります。即ち栂尾の高山寺にもあり、石山にもあります。或は有名な藏書家の有つて居るものもあります。是は支那には昔の體裁のまゝの者が、全く絶えて居りますから、楊守敬などが日本に居る時に、日本に遺つて居る分を版にして居ります。それも全部は遺つて居りませぬで、六分の一程しか遺つて居りませぬ。此の玉篇と云ふものは能く行はれた本で、唐の時に玉篇に大分手を入れて、其の手を入れたまゝで行つて居る。西洋でも字引は次第々々手を入れて、最初著述した時の面目が無くなるほど手を入れて年々變つて行く。玉篇も、梁、陳の時に顧野王が之を著はしてから、段々手を入れて變つて行つた。唐の時にも變り、宋の時にも變り、宋の時には殊に出版と云ふことが行はれて、宋元の間に玉篇の版になつたものが何十種と云ふ程あります。段々増して行つたものでありますから、體裁が變つて居る。段々増して行つたことになつて居りますが、實は段々減つて行つて居る。字の數は増して居るが、解釋が減つて行つて居る。今日後漢以後、唐以前の六朝の時の字引を見ようとするには、玉篇は非常に大切なものでありますが、惜しいことには顧野王の玉篇の原本の六分の一程しか遺つて居らない。其の後の本は唐宋以後手を入れて、いろ/\まぜくり返したものであつて、六朝の其の儘の玉篇を見ると云ふことは出來ぬのであります。所が弘法大師の篆隸萬象名義と云ふもので、玉篇の眞相が窺はれるのであります。篆隸萬象名義は、字の順なり、數なり、聲の反しから、解釋から、一切顧野王の玉篇其の儘になつて居ります。唐宋以後に手を入れたと云ふものは一つも加は
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