りますが、さう申した丈けでは、餘り説明が簡單で分りにくいだらうと思ひますから、先程申した一つの例を擧げて、その心持がお分りになるかどうかといふ材料に供して見ませう。
先程近代的織物が貴族的織物と異つて大衆本位になつて來たといふことを申しました。これははつきりと證據がいへます。近代元明以後、最も支那で良い織物として、最も多量に出來ます織物は緞子であります。この緞子といふ名前を見て、織物が大量生産になり、大衆向になつたといふことが分ります。緞子は實は段子と書いて宜いので、その段子といふことは織物の一反二反といふ反のことであります。近代支那で天子の御用の織物をしまつて置く庫があります。そのことを段匹庫と申します。それは織物をしまつて置く庫といふことであります。日本でも織物のことを反物と申しますのは、これと同じ意味で付けた言葉であります。つまり段子といふのは、日本に飜譯して反物といふと同じ意味、即ちこれは反で出來るといふことでありますが、反で出來るといふことは大量生産といふ意味です。貴族時代のやうに、一寸が必要であれば一寸の織物を作る、一尺必要であれば一尺の織物を作るといふことでない。兎に角大量生産をするので、織物には反にすることの必要が出て來る、それが段子といふことの起源であります。その段子といふことが支那の織物の善いものといふ意味になりましたのは、善い織物を多量に生産して來た、大衆生活が向上して、織物の需要の多くなつて來て居ることを現して居る。さういふことで、自然に又特殊性のものが壓迫されまして、漢の時などのやうに、天子に御用だけの特別の必要の織物を造るといふことはなくなりまして、近代では織物生産の地方に官吏を派遣して、織物の生産地から官用の織物を拔取つて都に送ることになつて居りますので、詰り織物の大量生産の中から、朝廷でもそれを拔取るだけの話でありまして、天子が入用だけ、一寸いれば一寸、一尺いれば一尺造るといふ特殊性がなくなつて來た。これが平民生活の新しい樣式といつても宜いかと思ひます。
第二 として、民族生活の永續より來る結果。これが又一つの重要な事柄であります。先程も申しました如く、民族といふものが、幼少の時代から壯んな時代を經て、老衰した時代に、個人の如く來るものとしますれば、平民時代といふものは大體民族生活の衰頽期に近いて居る。我々が近來頻りに民主々義とか何とかいふものをひどく謳歌しますが、併し實は民族の生活からいふと、民主々義といふやうな時は衰頽期であつて、その衰頽期といふことは又一種の特殊性を持つて居ります。人間一個人にしましても、子供の時には食物なども淡泊なものを要求します、それから自分がやる事柄でも簡單な事を要求しますが、中年の壯な時は濃厚な食物を食べたがつたり、複雜な仕事を喜ぶやうになります。老衰期になりますとそれがだん/″\又簡單な食物を要求し、若し單純なものを食べなかつたら中毒します。民族とか國家とかいふものもさういふものでありまして、それでだん/″\平民時代になりますと、人工を極度に進めた結果として、人工から天工と申しますか、天然に還る有樣になつて來ます。それは支那の歴史からいふと、唐までは人工的にだん/″\進んで來たと申して宜いでせう。朝鮮の樂浪などの發掘物を見ますと、漢の時に已に織物などがよく進みまして、それ以來唐あたりまでは、樣式が變化するだけで格別進歩するといふことはないかとも思ひますが、兎に角大體唐まではだん/″\向上して進んで行く時代であつたといふことが出來ます。さういふ時代には、歴史を書く人も幾らかさういふ意氣込を以て書きまして、其の作られた歴史も進歩の觀念を持て居ます。唐の時に有名な通典といふ本がありますが、その通典を見ますと、通典の著者即ち唐の宰相の杜佑といふ人は世態の進歩を認めて居る。つまり社會がさういふ風な状態であつたから、歴史家もさういふ風な考が起つたのであらうと思ふ。それが宋以後になりますと引くりかへつて來る、何でも總て古代に復へる傾を持つて來ます。それを極く簡單に項目を擧げて申しますと、道徳といふものがだん/″\平民本位になつて來まして、天子の生活さへも平民道徳でこれを縛るやうになつて來ます。宋代の名臣殊に諫官などが天子に對して要求する道徳的生活は平民と同じやうな原則で要求して居る。それから趣味などもだん/″\復古的の傾を持つて來て居る。唐までは庭園を造るとか、樓閣を造るとかいふやうなことは、人工的の物を造ることが盛でありました。然るに宋の時になると、最も奢侈を極め、亂暴な贅澤をした天子は徽宗皇帝でありますが、其徽宗皇帝の趣味さへも、原始的な野趣を求むるやうになつた。都の中に大きな庭園といふよりも森林を造つて猛獸毒蛇を入れて、さうして天然と同じやうな景色を作つて生活を樂しまうとしたことがあります。さういふことは趣味の復古的傾向でありますが、之と同時に其趣味を反映して居る所の畫なども同樣であります。樓閣山水といふことを支那で申しますが、樓閣を主とした山水は五代で終りました。繪畫で以て寫眞のやうに複雜な微細な技巧を現はすやうなことは、宋以後はしなくなりまして、さうしてその以後は自然の山水畫が盛になつて來た。それから不思議なのは醫者とか養生に關する方法さへも同樣であります。唐までの養生法は、何でも外部から藥で以て攻めつける養生法で、天子や貴族などが長生をしたいといふ、長生をしたいといふことは老人に至るまで女でも樂みたいといふやうなことでありますが、さういふことは皆藥を以てやらうとした。それで非常に刺戟の強い鑛物性の藥などを飮んで、それに中てられて死んだ天子などがよくあるのであります。宋以後はさういふことを止めまして、さうして内部の養生をして行かうといふ傾になりました。それで道教の方では養生の爲の藥を丹と申しますが、丹は長生不死の藥であります。宋以前は外丹の法でありましたが、宋以後は内丹の法といふものになつた。それは獨り按摩をするとか、體操みたやうなことをして養生をして、自分の身體の力で藥の力を假らずにやることを考へるやうになつた。それですから古い養生の書などに對する解釋が變つて來ました。昔の藥のことを書いた本でも、元來が外丹の意味であつたものを内丹の意味で解釋するやうになりました。宋の朱子が參同契考異といふ本を書いて居りますが、それは外丹を内丹で解釋した一つの著しい例であります。醫者の治療法でも變りまして、從來は對症療法で、病氣の在る所を藥で攻めて治すといふことでありましたが、宋以來の治療は温補と申しまして、病氣が起つた時は、一定の期間體力を補充して置くといふことを考へました。さうすると自然に體内で病氣に反對する抵抗力が増して來ますから、自然と病氣が治つて行く、さういふことを醫者の方で考へるやうになりました。斯ういふことが總て支那の民族生活があまり長く續いた爲に、反動的に古代生活に還らうとする傾が出來たのであります。
第三 には、又支那の特別の事情で、外の民族の侵入を受けて、一時金や元に支配された時代が出來て來ましたが、それが不思議に支那の民族の内部から出た所の復古的精神と偶然に出合ふ時代が來て、徽宗皇帝が庭園の中に禽獸を放し飼した時に、斯んなことをすると國が亡びると誰かゞいつたが、果して金に亡ぼされて一時野原になつたのでありますが、それと同じに、金とか元とかいふ民族の、野原に育つて來た生活が支那に注ぎ込まれて來た。その生活はその連中からいへば原始生活の森林の中から出て來るものでありますから、何でもないのでありまして、自分等は自分等の生活をその儘支那に持つて來てやるのであります。近代の清朝も同じことであります。併しながらそれは支那人から見れば復古的に原始生活に還ることになつて來て居ります。それで其生活の要素として、天然保存といふことに就て、動物の保存が出て來る、或は藥物など土地の名物の保存が出て來ます。それから動物の保存の爲に森林を保存することが出て來ます。これは餘程面白いと思ふ。動物の保存といふことはどういふことかと申しますと、昔は支那人は孔子樣なども裘即ち皮衣を着ましたが、漢代以後織物の發達から皮衣の用途がだん/″\薄らいで來て居つたのであります。それが野蠻民族の這入つて來た爲に、皮衣を着ることが大變高貴な生活といふことになりました。近代の清朝などもさうでありまして、官服として貂の皮を着ることがある。貂の皮が官服といふことになると貂を保存しなければならぬ。貂の保存をする爲に滿洲邊りの森林を保存しなければならぬ。蒙古とか滿洲人などは野蠻民族で、弓矢が長所であります。それが爲に矢が必要、矢には羽根が必要、それで鷹の羽根が大變必要であつた。その鷹の羽根を保存する爲にも亦滿洲邊りの森林を保存しなければならぬ。それで森林保存といふことが出來た。それから植物でありますが、昔から支那に人參といふ藥がありますが、今の山西地方には上黨人參といふ野生の人參が出たのでありますが、今ではだん/″\滿洲の奧の方に行かなければ野生人參はなくなつた。この天然人參を保存する爲に滿洲では森林を保存しなければならぬ。さういふいろ/\のことで森林を保存することになりました。これは滿洲人とか蒙古人といへば野蠻であるやうでありますが、支那人からいへば、一旦支那の國では人工を盡してしまつたので、反動的に天然生活の必要を感じて、或地方に天然を保存することを考へなければならぬやうになつて來たのでありますから、これは一遍極端な人工的のことをした上の保存であつて、復古的の天然保存の必要といふことを支那人が考へるやうになつた。ヨーロッパ人はまだそこに至つて居らぬと思ひます。ヨーロッパ人は隨分以前は方々の新發見地を漁つて歩いた時代は、毛皮にする動物などを獲て、大變珍重もし、又よい收入でありましたが、皆毛皮をそこら中の地方の森林から取り盡して、一向保存するといふことを考へる遑がなかつた。それで近頃では仕方がないから、緬羊といふやうな家畜を養つて、家畜から取つた毛で拵へた着物を着て、それで毛皮の眞似事をしたのでありますが、どつちかといふと人間が織つた毛織物よりも遙に立派な毛皮を着る生活を、もう一遍やらうといふことを考へて居らぬ。支那人はそれを考へて居つた。近頃は支那人も滿洲の森林を伐倒して、もう何年か經つたら滿洲に森林がなくなつてしまう、斯ういふ天然の貴重な植物も動物も絶えてしまう。日本人はさういふことは一向御存じないから、この新しい支那人の方鍼を手傳ふことを文化の開發と心得て居る。文化の淺い國は天然保存は考へない。そこは從來の支那人は古い文化を有つて居ただけに、天然保存をよく考へて居つた。これが支那の近代生活の一つの重要なことであります。
第四 は歴史の方から來たことであります。歴史の方から來て古代の物を愛翫するといふ傾が出て來ました。支那でも唐以前は、古代の發掘品といふものを生活要素に取入れることをあまりしなかつた。漢時代には、發掘物の中から銅器が出て來ると、それが符瑞即ち目出度いことであるといふ意味に解釋しました。學問上の參考には多少しましたが、發掘してきた物を趣味の對象として考へることは先づなかつたといつて宜い。それがだん/″\隋唐の頃から學問的に發掘物を利用することになりました。これも證據がありまして、隋の時に出て來た秦の始皇が使つた衡の分銅、即ち權が出て來た時に、その中に刻つてある文字で歴史の文字の誤を正すといふことをやつたことがあつた。これは顏之推といふ人の顏氏家訓といふ書に見えて居ります。これを宋代以後には趣味的に應用することになる。考古圖、博古圖といふやうな本が皆古銅器の發掘品を編纂したものでありますが、それは學問的の意味もありますが、趣味の意味が非常に進んで居りまして、その時分は學問と趣味と兩方から古代の器を見るやうになつた。その後明朝時代になると、だん/″\古器物が生活要素になります。さうして書籍などでも、古い時代の寫本とか板本とかに、教養のある人が大變魅惑されるやうになつて來た。明末に錢謙
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング