近代支那の文化生活
内藤湖南

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          一

 問題は如何にもハイカラに聞こえる問題でありまして、近頃の考へに向きさうでありますけれども、材料は私が考へて居る材料でありますから、至つて古臭いので、一向内容にハイカラな所はありませぬ。
 抑も支那の近代といふことが一體どういふことか、歴史の學問をやりますのに能く時代を上古とか、中世とか、近代とか申して分けますけれども、支那はあゝいふ古い國でありますから、其の各々の時代を朝名の明代とか清代とかいふやうに分けたりすることもあります。大體明代とか清代とかいふ風に分けますのは、眞に便宜上の區別でありまして、それは殆ど學問上からいふと何の意味も成さぬ位のことであります。それからして近代とか古代とか申しました所が、我々が今日存在して居る年から逆に遡つて何年位までが近代であるか、何年位までが中世、何年位までが古代といふ風にはつきりと分けられると結構でありますが、それがどうも國によつて一樣でありませぬ。手近な處で考へました所が、日本の開闢は何年程になりますか、よく我々は紀元二千五百年とか申しますが、專門の歴史家の方からいふと耶蘇紀元と大抵似た位に日本が開けたやうに申します。兎に角二千五百年と致しました所が、支那のやうな、日本より倍でもありませぬけれど、能く一口に四千年などと申します。四千年が三千年であつても日本とは大體年數が違ひます。もしそれで國とか或は民族といふやうなものも、其長い年數の間生活して續いて來て居るものと致しますれば、其の間に開闢から今日まで四千年程齡をとつて居る國もあり、日本のやうに或は二千年位齡をとつて居る國もあるわけであります。さうしますと、同じくその中で古代とか、中世とか、近代とか分けましても、其の各々の年數が違つて來ます。これは單に素人の考へでやりました相違でありますが、その外にも、その國の事情に依つて、色々又その見方を違へなければならぬことが出て來ると思ひます。さうして實は國とか民族とか申しますものは、其の時代を分けるのには、さう簡單に年數などで以て分けらるべきものではなく、根本に其の國、其の民族の…………一人の人間で申せば幼稚な時期と青年の時期と、それから老衰の時期とある如く、國とか民族とかいふものにも、さういふものがあると致しますると、古代といふやうな幼稚な時期がどの位、何年から何年位の間に當る、中世といふのはどの位からどの位に當るといふやうな、各々相違があるわけであります。さうして其の又各々の時代、幼少の時期、それから壯盛な時期、それから老衰の時期といふやうなのは、その各々の國に特別なこともあり、或は各民族に共通した點もありますが、要するに各々時期に依つて有する内容が違ふと思ひます。それを本當に考へぬといふと、單に近代と申しましても、近代といふことが一體どういふ意味か分らない。それで殊に支那は今申す通り、日本などから見ると殆ど倍に近い程も年數が長いのでありますから、一體どれ位の時代から近代か、その支那の近代といふものが有つて居る内容がどういふものかといふことを知らなければならぬと思ふ。どういふ風にしてこれを定めるかといふことは、それは少し歴史の專門の方に渉りまして、今日はそれを一々申上げるわけには參りませぬが、兎に角私共が信じて居る近代といふものゝ内容がどういふものか、それは支那に限りませぬ、日本でも或はヨーロッパあたりでも同樣でありますが、近代といふものゝ内容に是非なければならぬ條件がどういふものか、それを考へぬと、支那の近代と一口に申しましても、近代といふ意味が十分に分らぬと思ふ。

          二

 その事を先づ第一に申したいと思ふのでありますが、その近代の内容の中、一つは平民發展の時代、これはヨーロッパあたりにしますと、斯ういふやうに歴史を考へることは、何でもないことでありますが、支那の近代がどういふわけで一體平民發展時代になつて居るかといふことは、容易に分り易い問題ではありませぬ。支那の平民發展時代と申しましても、平民に參政權が出來たといふわけではありませぬ。今日でもそれが確實にあるわけでありませぬから、況や以前に於て平民が參政權を有つたといふ時代があつたわけではない。それで近代が平民發展時代といふことはどういふわけかといふことを先づ第一に考へて見なければならぬ。しかしながら又よく考へて見ますと、參政權といふやうなこと、即ち參政が權利化して、實際これが法律に纏つて出來上つて居ることが、必ずしも近代に是非なければならぬ條件ではない。參政權がなくても事實平民の發展する時代がある。それは殊に支那の如きがさうであつて、時としては平民發展時代が即ち君主專制時代であります。君主專制時代がなぜ平民發展時代かといふことは、これは今日のやうに政治のことは何でも西洋流にして考へる方からいへばをかしなことでありますけれども、支那では平民發展時代が即ち君主專制時代である。それはどういふわけかと申しますと、平民發展時代の前は貴族の時代――貴族の時代と申しますのは、これは君主といふやうな一元の貴族が世の中を横領して居るのではなくして、多數の貴族が政權に參與して居る時代であります。それが近代といふものになりますとそれが無くなります。それで貴族の盛であつた六朝から唐あたりの時代は、平民が貴族の爲に壓迫されたと申しますか、兎に角政治上の權力を貴族に專有されて、平民が何等のそこに權力もなかつたと同樣に、君主も同樣に貴族に對して實際の權力がないのであります。それで君主と平民といふものは同じやうな事情に置かれてあつた。それで貴族時代が崩れて、さうして君主も貴族から解放されます、平民も貴族から解放される。丁度平民が解放された時代が即ち君主も解放されて、さうして君主が政權を專有して居りましたが、それに支配されるものは平民で、その間の貴族といふ階級が取れましたから、それで君主專制時代が即ち平民發展時代になります。これは實は斯う抽象的に言つたばかりではお分りになりにくいと思ひますけれども、極く簡單に申上げますればさう申上げるより仕方がない。その内容を詳しくいふことになりますれば、これは支那の近代史を本當にやらぬと駄目で、僅かの時間では盡す事が出來ませぬ。
 夫に就て極く簡單に、どういふ風に君主專制時代が平民發展時代になつたかといふことを例を擧げて申上げる。それが著しく支那に見えて來ましたのが、宋の時代に王安石といふ人が新法を行ひまして、歴史家の書いた所ではそれが非常に惡法で、その爲に宋の國が弱つたといふやうなことを言つて居りますが、併し今日から王安石が新法を執り行つた時代を見ますと、新法の施行に依つて我々ははつきりと平民が政治上に實際の權利を占めて來る樣子が分ります。それはどういふことかと申しますと、王安石といふ人が青苗錢といふ法を行つた。これは簡單に申しますと、米を植ゑ付ける前、苗の時に人民に金を貸付けて、收入のあつた時に利息を附けて返還させる法であります。これが善い法であつた筈であるのに、結果が惡かつたのでありますが、それが大變面白いと思ひます。平民に金を貸付けて平民が利息を納めるといふのは、平民の土地の所有を認めて居ると同じこと、それによつて政府が平民の土地所有を認めて居つたのであります。それも詳しく申さなければ十分に分りませぬが、先づ簡單にいへばさうであります
 それからその次は勞働の自由であります。これも王安石の時に定まりました。それは唐代の支那の勞働に關する政治といふものは、日本にもありました租庸調の法といふのがあります。租は地租であります、調といふのは織物などを納める税であります。その中に庸といふのが勞役を政府に對して供給する義務であります。即ち一年に幾日か必ず政府の勞役に服さなければならぬ。勞役といふものはつまり人民の義務であつて、政府から命令されると拒むことを得ないものでありましたが、王安石は之を代へて雇役といふものにしました。さうなりますと政府がどれだけの賃銀をやるから勞働の募集に應じないかといふことにしまして、さうしてそれに對して人民は賃銀を貰つて働くまでゞ、人民が勞働したくないものは應じない、勞役したい者が應じて賃金を貰ふのでありますから、これは勞働の義務でなくして勞働が人民の權利になつて自由になつて居ります、即ち勞働の權利を人民に認めて居ります。
 それから商工業の生産品の自由を大體宋代に認めて居ります。それには和買といつて、人民と政府と相談づくで人民の持つて居る物を買ひ上げるといふことがあります。これは王安石以前からある法でありますが、政府から春に錢を人民に貸して置いて、夏秋に至つて其代りに絹を官に出さすのでありますが、これは名義は合意でありますけれども、其後になつては官より無理にやらすことになつて、一種の弊政となつたのは實際であります。けれども制度の立て方は、人民の持つて居る物を政府が合意の上に買上げるといふことでありました。王安石は更に市易といふものを考へた、田地絹物などを抵當として政府から約二割の利で金を借る法であります。それらは皆人民の物品の所有權が確定されたやうなものであります。
 それから又全體の財産の自由をも認めて居る。それは王安石の後に行はれたのでありまして、これも後に弊政だといふことになりましたけれども、手實法といふものを實行しました。それは人民に自分の財産はどれだけの値段がありますといふことを自分で申立てさせる、丁度所得税を取るときにその所得額を申立てるやうであります。さうしてそれに對して二割といふ税を課することにした。これは實際は官吏が横暴で、今日の營業税などの如く、官吏が横暴に額をきめる弊がありまして、官吏が勝手に額を決めて重税を課しましたけれども、制度の精神としてはさうでないので、人民が自分で私の財産は何千圓なら何千圓の値打がありますといふと、その内二割を税に取る。それは一方から考へますと財産といふものゝ自由を認めて、さうしてそれに對する税を課するといふ意味になります。
 斯ういふことで人民の所有權を認めて居ります。その前は謂はゞ人民の財産といふものは國家が自由にすることの出來るものだといふことでありまして、人民に本當の所有權が有つたか無かつたかといふことが問題であります。尤も歴史的に言へば、この新制度も王安石の時に一遍に生じたのでなくて、だん/\さうなつて來て居るので、その歴史を話せば長いことでありますが、兎に角斯ういふことが王安石の新法ではつきり致しました。さういふことで、人民の私有といふことの明白になつたのが、私は近代の内容のはつきりした事情の一つと思ふ。
 これが物質的のことばかりでなくして、精神的のことにも及んで來ました。大體漢から唐までの學問といふものは、先生から傳へられたことを守つて、それをだん/\解釋をして演述して行くことは出來るけれども、傳來した師説に背くことの出來ないのが漢から唐までの學問のやり方でありました。それが唐の中頃から自由研究といふものが起つて來たのでありますが、唐の時にはその芽生えが出來た丈けでありまして、宋の時にその自由研究の精神が盛に起りました。それで昔から在る所の經書などに致しましても、傳來の説を守らぬでもよくて、自分の考で新しい解釋をして少しも差支ないことになりました。それが平民時代の平民精神が學問に入つて來たのであります。貴族時代は家系の傳來を重んずると同樣に、學説も傳來を重んじて居りましたが、それが宋の時代になつて自由研究になつた、さういふのが平民時代の特殊な状態であります。
 更に藝術の事に
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