及びますと、此の時代に始めて文人畫といふものが出て來ました。勿論それまでにはだん/″\歴史があるのでありますけれども、世に謂ふ所の南畫の中に文人畫といふやうなものが特に一つの途を開きました。その前からあるといふ説は、支那畫を論ずる人になりますとだん/″\ありますが、私はこの一種の畫の描き方はやはり王安石の時代頃から起つたと思ひます。その文人畫の眞意は、藝術家の專門離れのすることであります。その前は畫は畫工といふ專門家が描くことになつて居りました。所が宋代に新に起つた文人畫といふもので素人が畫を描くといふことが始まつて來た、素人でも藝術に嗜みのある人は畫を描いても差支ないといふことになつて來ました。それが即ち專門家離れをするといふことでありまして、昔唐の初めまでは、畫の題材としては大抵昔から經書とか歴史とかに在る故事來歴に關係したことを畫に描きました。山水は六朝の中頃から發達しましたが、山水でも專門家が特別に研究して描きますから、非常に變つた景色の處を描くことでありましたが、文人畫といふものが、文與可、蘇東坡などによつて起りましてから、唯都から餘り遠くない、誰でも見得る處、誰でも描き得る處の山水を描くことになりました。それが藝術の專門家離れをしたことで、藝術にさういふ精神が入つて來たのであります。
 それから工藝でありますが、工藝といふものは餘程考へやうによつては面白いものであります。文化の要素は色々ありませうが、私は文化の程度のはつきりと分るのは其邦の工藝が一番だと思ふ。これを一々茲で説明するには餘り餘裕がありませぬから、私が考へて居る結論だけを茲に述べます。所が工藝に平民精神といふものが宋の時に入つて來て居ると私は考へます。漢から唐までは工藝といふものは朝廷若くは貴族の需用に應ずる爲に作つたものであります、平民は何にもそれに關係のないものであります。それで其の工藝は多くは經濟といふものを無視して、特に朝廷に職人を雇つて置きまして、さうして其の職人に、日本であつたら禄をやるやうに、食ふだけのものをやつて、幾ら金が掛らうが、日數が掛らうが、そんなことに構はずにやらす所の工藝が、漢あたりから出來て居つたのであります。宋の頃になりまして平民相手の大量生産が始まつて來ました。それは織物、陶器に於いては殊に著しい。大量生産といふものが工藝の平民化であります。これは後でもう少し
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