近畿地方に於ける神社
内藤湖南
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(例)出雲|井於《ゐのうへ》
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(例)なか/\巧く
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私のお話致しますのは、「近畿地方に於ける神社」と申します。近畿地方は殊に神社の大變多い處でありまして、最も古社の多い處であります。それらに就て悉く話すことは到底出來ることではありませぬ。又私は一體神社のことを深く研究した譯でも何でもありませぬが、幾らか趣味を持つたのは大分古いことで、大日本史神祇志が出版になりました頃之を讀みまして、其の中に神社に關する色々の考證が時々出て居りましたのに大變興味を感じたことがあります。其の後それに類似したもの、即ち矢張り大日本史神祇志を書かれた栗田博士が色々研究されたもの、其の他のものなどを見まして、神社の研究に幾らか興味を有つた。併し私の專門に屬することでないから、大分前にさう云ふことを考へたゞけであつて、其の後一向研究は進歩して居りませぬ。唯其の頃考へたことを一二拾つてお話をする位のことであります。
近頃神社といふことが大分世間で問題になるやうになりまして、御承知でありますか知りませぬが、政府筋でもそれに關して商賣に拔目が無く、鐵道院では「かみ詣で」といふ小さい本を作つて居られる。是も貰つたから見たので、強ひて買つて見ようといふほどの考も無かつた。見ると、是は鐵道院でも半分は商賣に致したことでありませうから、學問上から色々苦情を言つても仕方がないが、殊に其の見方は言はゞ遊覽の材料に書いたやうなものでありまして、實は神社を有難く感ずる爲に書いたのか、遊び歩く序でに少し見たら宜からうといふので書いたのか判らない位であります。之を見ますと如何にも信仰のあるやうな口繪などが付いて居りますけれども、中は矢張り何處が特別保護建築物であるとか、景色も佳いとか、惡いとかいふやうなことが重に書いてあります。まア半分は遊覽の爲めである。尤も遊覽から信仰が起つたら猶更結構でありますが、兎に角さういふ風で大分神社等に注意するやうになりました。それと共に「神社と思想問題」などが屡々現はれかゝるのであります。私は思想問題の方へ觸れることは、神社の事に就て言ふよりも遙かに不得手でありますから、矢張り單に自分のやる歴史上から考へて見たいのであります。それ故私の方から言ふと神社は有難くならぬ方が多いかも知れませぬ。併し兎に角色々昔の人の研究したことに就て自分の考へたことを少しばかり話してみようと思ふのであります。
古い事を考へますと、近畿地方は神社のことだけではなく、歴史上非常に年數が永い。同じ日本としましても、近畿地方と私が生れました東北地方などゝは歴史上の年代に餘程差があります。日本の開闢は何千年か知りませぬ。普通二千五百年と言つて居る。併し私共の生れた東北地方の歴史らしい歴史の始まりは、非常に古くても八九百年位であります。それも眞に我々の地方の名が歴史に出て居るか居らぬかといふ位のものであります。多少歴史の上に分るやうになつたのは、殆ど南北朝以後のことであります。それでありますから近畿地方とは二倍も三倍も年數が違ふのであります。それだけ又近畿地方は同じ地方のことが歴史上重なつて居ります。史蹟と申しましても非常に厄介でありまして、同一の地に幾つもの事が重なつて居る。それで神社なども自然さういふ風になつて居ります。けれどもそれが又近畿地方の神社を研究するに就て最も興味の多い所であらうと思ふ。
それに就てつい此の附近の事に關して偶然色々思ひ付た事があります。今京都の附近で立派な神社と申しますと、先づ加茂であります。併し加茂の神社の存在して居る地方に於て、昔から加茂の神社があの通りの大きさ、あの通りの盛んさであつたかどうかと考へますと、餘程それは疑問なのでありまして、加茂の縁起などを見ますと、あの川の處が昔から清らかであつて、加茂の神樣の娘さんが洗濯して居つたか、遊んで居つたか、其の時に、丹塗の矢が流れて來て、それに感じて子を産んだとか、其の子が屋根を破つて飛んで行つて松尾神社になつたとか、色々面白い話があつて、初めからあの近邊が加茂の神社で以て占領して居つたやうに考へられますが、能く調べて見ますと必ずしもさうではなさゝうであります。下加茂の境内といつて宜しい所に小さい柊神社といふものがあります。それは延喜式の神名帳などで見ますと「出雲|井於《ゐのうへ》」と申す神社であります。此の神社は今では加茂の境内の隅の方に小さなものになつて居るけれども、昔からあんなに小さいものであつたかどうか一つの疑問である。「出雲」といふことは出雲國といふやうに、そんなに遠方まで持つて行つて關係を付ける程のことでもないと思ひますが、兎に角此の附近に出雲を頭に冠つた地名、神社が色々あります。丹波の國の桑田郡に出雲神社といふものがあります。それから又京都の北部にかけて、多分それに關係のあると思ふ出雲の地名を冠つた神社があります。山端《やまばな》の北手に高野村といふ處がありますが、其處に出雲高野神社といふものがあつたといふことであります。今日ではそれが變りまして崇道神社といふものになつて居ります。それが出雲高野神社であるといふことを、色々神社の研究をした人が考證して居ります。又京都の北部全體を出雲路と稱して居ります。それでこれが大體出雲に關係がある。――それが直ちに出雲國に關係があるかどうか知りませぬが――兎に角出雲といふ一の氏族が昔其處に割據して居つた所ではあるまいかといふことが考へられる。それではどうして其處へ加茂といふものが關係して來たかといふことになりますが、まだ其の前に關係したものもあると思はれます。一體崇道神社といふものは私にとつては何でもないことでありまして、そんな事を調べる必要は無いのでありますが、それに興味を感ずるやうになりましたのは、崇道神社の山の裏手に小野毛人といふ人の墓があつて、銅板の墓誌が出た所でありますので、それを研究するに就て色々崇道神社なんかのことを考へるやうになつたのであります。そこで又延喜式の神名帳に據りますと、小野神社といふものが其の邊にあつたといふ事であります。小野神社といふものはどうなつたかと申しますと、今日では矢張り高野村の中に加茂|御影《みかげ》社といふものがありまして、崇道神社の南側になつて居りますが、それがさうであつたといふ風に考へられて居ります。それが昔小野神社であつたとしますと其處に小野といふものが關係があつたといふことになるのであります。それでは小野といふものはどういふやうに關係して來たかと申しますと、矢張り近江國の滋賀郡に小野神社と稱するものがありますが、小野毛人といふ人は聖徳太子の時代に隋に入りました妹子の孫に當るといふ人でありまして、即ち聖徳太子時代から小野氏は著しく見はれて居りますが、歴史上小野氏といふものはどういふ系圖を引いて居るかと申しますと、孝昭天皇の末孫であつて、それから系圖を引いて小野氏といふものが出來たことになつて居ります。其の先祖の神社が近江國の滋賀郡に小野神社といふものとなつてありまして、そして小野氏が段々に盛になつた時に山を越えて山城の北部まで領分を擴げて來て、小野毛人の墓などが高野の崇道神社の裏に造られるやうになつたのであらうと思ひます。さう考へて見ますと、京都の北部全體が出雲氏の關係であつた時から見ると大分後であると思ふ。小野妹子時代といふものははつきり分つて居る時代でありますが、其の前の出雲氏のことは殆ど記録にも何にもなつて居ないので、唯神社に依つてさういふものがあつたやうに思はれるだけであります。さうすると京都の北部といふものは時代の分らない前に出雲氏の關係のあつた土地であつたが、丁度歴史の始まる時代、即ち聖徳太子の前後頃からして近江の方に根據を有つて居つた小野氏の支配に何時となく入つて、それから後に加茂の關係が生じて來たのであらうと考へられます。上加茂の方は古いかも知れませぬ。鴨建角身命の娘から加茂の別雷神が生れたといふのでありますから、大分古いかも知れませぬ、併しそれは兎に角、加茂の一部分の山奧に神社があつたのが、加茂の氏人が段々擴つて來て、ことに京都が帝都になりました關係から、其の時分の大きな神社を一般に尊敬するやうになりましたり、或は又天子が尊崇される神樣とか、或は其の他の大きな神社といふものが段々世に尊敬されて行きました。大和地方などでも龍田などは天武天皇が特別に尊崇されたからそれが盛になつた。一體それがどういふ譯で尊崇されたか分らぬが、兎に角天子が特別に尊崇されることになるとそれが繁昌することになります。加茂も此處に帝都が遷されて特別に加茂神社が尊敬されたのであらう。其の尊敬された由來も色々ありませうが、それまでやりますと餘り諄くなりますからやめて置きますが、それで段々加茂の氏人が擴つて來て、元の出雲氏の占めて居つた京都の北部地方を段々占領しまして、出雲井於神社といふもとの神樣は隅の方に押遣られて、其の大部分は下加茂の境内になつてしまつたといふ形になつたのでありますが、併し其處を占領したからといつて、他の氏族が崇敬して居つた神社を無暗に取拂つて仕舞ふといふことはしないのが我が古の習俗である。此の節の支那邊りの模樣でありますと、革命になると前から尊敬して居つた偉い人の祠などでも皆打ち壞して新らしいものを祀つて居るといふ譯でありますが、日本は一つは風俗の敦い所からでもありませう、一つは又さういふことをしますと能く祟つたものでありますから、神樣を取除けると必ずそれが祟るといふので、大方祟りの爲めに昔からあるものは其のまゝ据ゑてあつた。それで柊社といふものは地主の神と稱して居る。元來其處が柊社が有つて居つた所で、後から入つて來た者がそれを占領したのでありますから、前の神樣を地主の神として尊敬して居つたのであります。それから高野の方でもさういふ風にして、小野神社といふものは加茂御影社といふ風に變つてしまふやうになりました。それで加茂の族といふものは非常に繁昌して近代まで存續した。其の後になりますと平安朝の以後から神社はどうなるかといふと、時々一つの氏が他の氏に侵略されるといふことに依つて變るよりも、佛教が起つた爲めに寺の方から神社が侵略された。叡山などが好い例であります。叡山は御承知の如く日枝神社といふものがある。大日枝、小日枝といふ大小の日枝神社がありますが、小日枝と稱する方は大山咋《おほやまくひ》神が祀つてありまして、今の加茂の別雷神のお父さんであると言はれて居る神樣、丹塗の矢になつて來て加茂の建角身命の娘さんに孕ました大山咋尊がそれであるといふことであります。それが小日枝でありまして、元來の神社であります。然るに傳教大師があの山を開きました時に自分の信仰する神樣を連れて來て其處に鎭守させる。それは大和の三輪の神樣であります。そして彼處に鎭守させたのが大日枝の神社であります。昔からの小日枝の方は山の下へ下げましたが、昔からある神樣でありますから矢張り地主の神としてあります。是は二重の手數でありまして、お寺が神社の領地を占領する爲に、直ちに其のまゝ占領せずに、矢張り餘所から神樣を連れて來て、其の神樣に占領させて、是が自分の鎭守の神樣だと稱して彼等が其處を支配して居つた。二重の手數を致して居りますが、それ位の必要は當時神社の領地を占領するに就てあつたものと見えます。さういふことで段々變動して、平安朝の頃からは佛教の方で神社を占領するやうになりましたが、それから後鎌倉頃になりますと、武家が寺、神社の領地を占領するやうになりました。武家といふものはいたつて信仰の範圍の狹いもので、
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