自分の尊崇して居る神樣を持つて歩きました。平家は嚴島の辨財天を其處らぢう持つて歩く、源氏は八幡樣を擔ぎ廻る。或は在來の神社を八幡樣に變へた。平家は時代は大して長くありませぬから辨財天に化する事は餘り致しませぬけれども、源氏は其處らぢうに蔓りましたから皆他の神社を八幡樣に化して了つた。それから後の事は段々鎌倉に訴訟が起りまして、文書といふものが出來ました。文書といふものゝ多數は何時でも寺と武家の訴訟から出來まして、それが鎌倉頃から始まつて居るから、我邦の文書の多數は鎌倉頃から始まつて居ります。詰り寺と武家の喧嘩になりまして、其の頃から文書がありますから、寺領が武家に占領された時のことは明に分ります、又其の前のことは神社を占領した寺の記録も相當にありますから分りますが、神社が神社を占領した、詰り一つの氏が盛になつて居る處に、後の氏が侵略して行つた爲に、自分の氏神を持つて行つて前の氏神に代へるといふ侵略の時代は文書がありませぬ。殆ど歴史がありませぬ。今日になつては神社の存在に依つて幾らかそれが分る。加茂の隅の方に柊神社があつてそれが昔の地主の神社であつたとか、叡山にある小日枝が矢張り昔比叡の氏人が持つて居つたのを、それを寺が侵略したのであるといふことが分るやうなことであります。詰り神社研究といふことは、私は餘り國學をやりませぬから專門外でありますが、歴史の方から申しますと記録のない時代の變遷を説明するといふことになります。其の點は餘程役に立ちます。それで例へば口碑の研究をするとか、神社の分布、神社の來歴、さういふことを研究することは餘程上古の歴史を知る上に於て役に立つと思ひます。又日本のやうな神代からの神社が今日まで遺つて居つて、假令それが段々變つて大きなものが小さくなり、小さいものが大きくなつたとしても、兎に角それを亡ぼさない習慣がありまして、そしてそれが今日まで存在して居るのでありますから、言はゞ人間の歴史を以て開け始まるまでの古代の樣子が判ります。私共がやります支那の歴史などに於きましては、遺蹟が日本のやうに、古いもの新しいものとも揃つて存在して居るといふことが希れであり、歴史上に於ても記録は澤山ある國でありますけれども、上古の記録には確かなものがありませぬ。それでありますから殆ど古代の状態は分らなくなつて居りますが、日本は幸にして記録の時代は若いにしても、神社といふものがあつて、神社に依つて其の記録のない時代の補ひを付けることが出來ますから、非常に國史を研究する上に於て便利であります。それを幾らかやり方を間違へると飛んだ間違つたやり方をしますものですから、其の研究は餘程微細な注意を致さなければならぬのでありますが、兎に角其の研究の方法さへ誤りがなかつたならば、古代のことは神社に於て餘程明らかになる。殊に近畿地方は昔から記録の無い時から非常に早く開け始めた地方でありますから、近畿地方に於ける神社の状態は二重にも三重にもなつて居りますから、近畿地方の神社を研究しますと日本の最も古い所が隨分分らうと思ひます。それが神社研究といふことの大體緒論みたやうなものであります。
前に申しました如く私が神社のことに就て少しばかり本を讀んだ時に、神社を深く研究する積りでありませぬから文書を研究するとかいふ根本的の研究をしたのではありませぬ。人が研究したのを極く粗雜に讀んで見た位のことでありますが、人の研究したものを見た所の結果に依つて多少生じた疑問と申しますか、別に私は專門家ではありませぬから、そんなことを決着する必要はありませぬから決着して居りませぬが、色々それに就て偶然思ひ付いたことを述べて見たいと思ふのであります。
其の一つは外國から來た神のことであります。これは前から研究した人があります。伴信友の蕃神考、是は京都の平野神社の研究、即ち是は今日では國書刊行會などで版になつて居りますから御覽になつた方もありませうが、之に就て思ひ付いたことがあります。
所が私は能く申しますが、國學、例へば神社の研究にしても、古代の研究にしても、國學といふものは明治以前の方が大分發達して居ります。明治以後は頓と發達しませぬ。神社のことでも明治以前の方が大分微に入つて研究しました。其の後明治以後になつては頓とさういふ方の人が餘り研究をしませぬので、どうかすると進歩しないのみならず、色々書いたことが皆後戻りをして居る。平野神社なども同樣でありまして、平野神社の伴信友の研究といふものは餘程良い頭で研究したものであります。非常に感服すべき所のものであります。今日平野神社で其の祭神が如何なるものかといふことに就て考へて居ることは信友の考へたよりも遙かに退歩して居るではないかと思ふ。平野神社に就て研究したのではありませぬが古事類苑といふ大きな本があります。あれに官國幣社のことを書いてありますが、あれで見ますと平野神社に就て伴信友の研究したやうなことは、丸で書いてありませぬ。信友の研究した中で詰らない所の一部分五六行のものが載せてありますが、眼目とした事は殆ど何も述べてない。矢張り昔からの詰らない傳説を土臺として、何だか分らないやうになつて居ります。別にそれで差支があるといふ譯ではありませぬが、平野神社といふものは途中から色々變りまして、後になつて皇室が繁昌されなくなつた時代に大分衰へた。兎に角中古は神社といふものは保護者が無くなつたら往々自分の自營策を講じた。伊勢の大神宮でも其の時分に皇室の保護が無くなり、氏族の神社でも氏子が繁昌しなくなると自營策を講じた。其の爲に色々のことをやる。神社の自營策の結果として氏子を取込むことを考へる。平野の神社も八姓の神樣の合祀と言はれて、源氏もあれば平家もあり、何もかも皆取込んで、大凡京都に居る名族の人達は皆平野神社に詣らなければならぬやうに仕組んである。さういふことは自營策としてなか/\巧く考へたもので、さういふことを中古に神社はやりました。それで其の頃出來た八姓の神といふ説でありますが、今日ではどの位の程度で平野神社といふものを考へて居るかと申しますと、斯ういふ鐵道院の方で書いた本に出て居ることも好い加減のものであります。それで折角伴信友といふやうな學者が非常な苦心をして研究したのが何の役にも立たない。學問の權威を無視すること夥しいものである。
それでは伴信友はどういふ風に研究したかと申しますと、平野神社といふものは今木神、久度神、古開神、比※[#「口+羊」、第3水準1−15−1]神、斯う四つの神樣となつて居ります。鐵道院の神詣でには何の神樣か分らないといふことになつて居ります。伴信友の説では是は一體平野神社といふものは桓武天皇樣が平安京を開かれた時に此の平安京へ持つて來られたものであるとしてある。桓武天皇の母方の家といふものは、百濟の王の末孫であります。百濟の聖明王は日本へ佛教を欽明朝の時に送つて寄越した王であります。此の王の末孫であります。それで此の今木神等は百濟の王家の神樣と考へられたのであります。此の今木神といふのは即ち聖明王だと考へた、久度神、古開神といふのは何だか分らない、兎に角久度神社といふものは大和の龍田の附近にあつたので一緒に來た。古開神といふのは矢張り外國から來た家柄ではありませぬけれども、桓武天皇樣の母、皇太后の又母方の家の神樣だ、比※[#「口+羊」、第3水準1−15−1]神といふのは母方の神樣だと斯うしました。多分久度神といふのは、今の竈のことを私の國などでも「くど」と申して居りますが、竈の神であつて同時に大和の國で桓武天皇の皇太后の母方の家の方で祀つて居つた竈の神があつて、それを勸請して來たとある。斯ういふ考へである。兎に角其の中、今木神といふのは聖明王に違ひないと考へた。是は餘程面白いことでありますけれども、それは誰方でも國書刊行會の伴信友全書を御覽になりますれば分りますから、私がくはしく述べる必要はありませぬ。併し伴信友の考證に幾らか不滿足なことがありますので、それに餘計なことを付加へて見たいと思ふ。
それは今木神といふのは大和の地名だと考へた。久度といふのも方々にありますから矢張り地名と稱してあるのであります。併し大和邊りで新漢《いまきのあや》とか何とかいふことがありまして、新《いまき》といふのは或る氏が今外國から新らしく來た、今來た所の種族が居つたので、それで「いまき」の何某といつたので、元來は今來とも書て、今木といふのは地名でないと思ひます。新らしく來た種族が居たので今木といふことが頭に冠るやうになりました。それでありますから今木神といふのは、今木を大和の地名にする必要はないので、新らしく來たので、即ち外國から來た神といふ意味であります。
それから久度でありますが、是は信友も朝鮮の書物を讀みましたけれども、到頭それに氣が付かなかつたと見えます。私の考へでは聖明王の先祖を祀つたのだと思ひます。それは百濟の國の開闢に就て餘程有力な王があります。朝鮮の歴史の中で尤も古い三國史記では百濟の國の先祖と言はれて居るのは温祚王といふことになつて居ります。其の數代後を肖古王といふ、それから其の次を仇首王。それで此の肖古、仇首といふ二代の時に百濟の國が大變大きくなりまして、其後此の王の頭に近の字を冠せた近肖古王、近仇首王といふ人がありまして、其の時に又非常に盛になりました。兎に角肖古王、仇首王といふ時は百濟の國が大變に發展した時代であります。所で此の仇首王といふ人は三國史記にも或は貴須といふとありまして、日本の姓氏録でも、「貴首王」と書いてあります。或は「陰太|貴首《きす》王」とも書いてあります。「陰太」といふのは分らないのでありますが、温祚と關係があるかと思つて居ります。マア其方はどうでも宜いとして、兎に角この仇首王といふのが、百濟では大關係のある王であります。時としては仇首といふ文字が朝鮮の本の他の所では首の字に※[#「二点しんにょう」、第4水準2−89−74]が付いて仇道となつたのもあります。それから百濟の國のことを支那の方で書きました後周書、隋書、北史などに依りますと、百濟の國の起り初めを温祚でなくして、仇台といふ人が百濟の國を起したのである。元來百濟といふものは高句麗と同じ先祖で夫餘から分れたのでありますが、其の分れた時に仇台といふ人が分れた。是が百濟の國を起したといふことになつて居ります。又もう一つ遡りますと高句麗といふものは夫餘國と同じ種族であるとなつて居りますが、夫餘國の主な王の名前に尉仇台といふものがあります。「尉」といふのは人の名前ではありませぬ。支那で漢の時代の地方行政區劃は郡と國で、郡の頭は太守でありますが、太守の領分を二つか三つに分けて都尉といふものが之を支配し、又縣には尉がありました。尉仇台といふのは都尉又は縣尉の仇台といふ意味でありまして、其の時代に支那に境を接した夷狄の土着民は都尉や縣尉といふものを大變に偉いものだと思つて居りましたから、尉といふ語を自分の頭に冠るのが皆大變偉いことゝ思つた。日本でも左衞門尉とか右衞門尉とか左兵衞尉、右兵衞尉といふやうなものは朝廷では極く低い官ではありますが、それが鎌倉時代頃に田舎へ行くと豪族などは偉いものだと思つて、何兵衞尉と名のることを大變名譽であると思つたと同じことであります。尉の字を冠るのが名譽として居つたので、それを名前の上に付けたので、名前は仇台であります。三國史記には又優台ともしてありますが、是は尉仇台のつまつた音だと思ひます。兎に角仇台といふ者が夫餘並に百濟で國を起したといふことが昔からあるのであります。其の名前の人は後になつても偉い王が出て來ると屡々現はれて來ます。詰り仇首も仇道も同じ音であつたので、「くど」の音であつたと思ひます。又仇台が「くど」と讀まれるのは、「台」の字は日本紀などには「と」と讀んであります。それで仇台も「くど」仇首も仇道も「くど」で其の音がどうかした關係から、貴首又は貴須とも響くのでありますが、要するに「くど」といふ音の變化だと思ひます。それで今日朝鮮の方に遣つて居る歴史に據ると、温祚
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