ども山東の内地から來たのではあるまいか、さういふものが段々日本へ來て秦氏になつた。それ故に齊の國で八神を祀つて居るのであるから其神を持つて來たのではあるまいか。日本の姓氏録を見ますと何氏々々の末孫と書いてありますが、支那では其の時分では氏族の勢力が衰へまして、漢の高祖のやうに平民から天子になつた人もありますから大分衰へて居るのでありますが、日本では非常に氏を尊んで居りましたので、何か氏|姓《かばね》のある者でないと、外國から來た者は穢多同樣の賤民にされたのでありますから、外國から來た連中は私は誰某の末孫であるといふ迂散臭い系圖か何かを拵へて、私は漢の高祖、秦の始皇の末孫であつて一技一藝ありといふので、日本で氏姓をもらつて相當の待遇を受けた。殊に秦氏の家などは蠶を飼つて織物をすることが上手であつたので、それが家の職業となつて大變に優遇されましたが、齊の地方は禹貢などからして蠶織のことが出て居ります。さういふので皆何か其の時一藝一能あつて、そして何か怪しい系圖でも持つて來ると日本で立派な氏姓に取立てられた。それで果して秦の始皇の末孫かどうか分らぬけれども、兎に角さう稱して氏神の兵主といふものを持つて來た者が、それが日本に住つてさうして兵主神社といふものが其處らぢうに擴まるやうになつたのではあるまいか。それで兵主といふものは強ち丸で武の方に關係がないといふことは言へませぬ。それは射楯の兵主神社、射楯の神社といふものがありますが、日本の射楯の神社といふのは多くは素盞嗚|五十猛《いそたける》の神と考へられた。是は武の神の猛烈なる神さんで、それが射楯神社となつたと考へられて居つた。其の素盞嗚尊と支那の秦氏との關係は喜田博士に頼む方が宜いので、私がそこまでやると領分を侵害することになるから止めて置きます。兎に角兵主神社といふものは八千矛の神だから兵主といつたのでなくして、之に限つて何とか難かしい古い日本語の名を呼ばずに、延喜式の時代から音で兵主《ひやうず》神社と呼んで居ります。であるから支那から持つて來たので音で呼んで居るのでないかと考へられる。それで是も外國から來た神の中に加へたいと思ふ。
此の二つは外國から來た神樣のことでありますが、もう一つ近畿地方に多數ある神樣で、日本の大變偉い神樣に關係のあることでありまして、今まで餘り人が問題にして居りませぬですから、私には判斷をすることは難しいのでありますが、唯さういふ問題を一つ提供して見たいと思ひます。
日本で一番崇高の神樣と申しますと天照大神であります。是は延喜式には單に伊勢國度會郡の處に大神宮としてあつて天照とも何とも書いてありませぬ。ところで「天照」といふ二字を冠つた神社が割合に近畿地方に多數ある。それが大神宮と果して關係のあるものか無いものかといふことを、人が是まで考へたことがあるかどうかといふことが第一疑問であります。山城の國から申しますと、つい近い處に木島坐天照御魂神社即ち木島明神といふのがある。此の神樣はなか/\粹な神樣でありまして、日本に遊仙窟と稱する、今日出版したら風俗壞亂で禁止されるやうな支那から早く渡りました有名な本がありますが、嵯峨天皇の時かに其の本が來たが、どう訓點を付けて宜いか讀めなかつた時に、此の木島明神が老人になつて顯はれて其の讀方を伊時といふ學士に教へた。それで遊仙窟の訓點が出來たのだといふ傳説がある位でありまして、なか/\隅に置けない神樣であります。それから大和國には類似の神が二つもあります。城上郡に他田坐天照御魂神社といふのがあります。それから城下郡に鏡作坐天照御魂神社といふのがある。それから河内國の今は何處になりますか昔の高安郡に天照大神高座神社と稱するものがあります。それから攝津の國の島下郡に新屋坐天照御魂神社、それから丹波の國天田郡に天照玉命神社といふものがあります。それから播磨國の揖保郡に揖保坐天照神社、斯ういふのがあります。大體是だけであります。まだ併し類似のが他所にも天照神社といふのがありますが、まあ是だけで話して見ようと思ひます。是は一體どういふ神樣を祀つて居るかといふことは分らないのでありまして、一方を片付けようとすると一方に差支が出來る。それが又天照大神と全く關係があるのか無いのか餘程分り惡い神樣であります。皆是が能く分ると色々又古代史の説明に多少何か理窟が付けられるかも知れぬと思ふのでありますが、私にはそこまで到りかねます。たゞさういふものに注意することが出來ることだけを申して置きたいと思ひます。栗田博士の神祇志料、神祇志を書く前に之を書かれて、其の上で研究されて神祇志を書かれたのでありますが、栗田博士は之を割合に簡便に片付けて居ります。それは此の中で河内の高安郡の天照大神高座神社だけは天照大神高御産巣日命を祭るとしてありますが、其の外は皆天火明命を祀つて居るのだと片付けてしまつた。舊事本記に據りますと火明命の名は天照國照天火明命とあるので、總て之で片付けてしまつた。そして總て此の近畿地方に昔榮えて居つた氏の中の最も大きな氏は尾張氏であります。尾張國には天照御魂神社といふものはありませぬけれども眞墨田神社といふものは矢張り天火明命を祀つたのである。近畿地方の此の神社は皆尾張氏或は尾張氏と同じ系統の家の祖神であると決めてしまひました。栗田博士には色々發明の説があります。たとへば舊事記に尾張氏と物部氏の元祖の系圖のことが出て居りまして、古代のことを研究するに有益なものでありますが、それが色々混雜して居るといふことを栗田博士は考へられて、尾張氏と物部氏の系圖を引分けました。それが良いか惡いか疑問でありますが、巧く本の中で分けた。尾張氏といふのは天火明命の末孫、物部氏は饒速日命の末孫とした。舊事記の方はそれが一つになつてしまつて、尾張氏も物部氏も同じ神から出たことになつて居るのを、栗田さんは巧く分けて、天火明命の末孫は尾張氏、饒速日命の末孫は物部氏と分けた、非常な手際であります。上古史は手際さへよくやれば大抵の事は片付く、手際よくやつた者は大抵勝つに決つて居る。そこで此天照御魂も手際よくやらうと思ふのでありますが、私の學問では出來ませぬ。餘り手際よく行きますと却つてそこらぢう差合が出來ます。それで片つ端から一とわたり當つて見ますと、木島明神、是は何も大したことはありませぬ。是は從來の説では唯天日神命で高産靈の子であるといふことになつて居ります。栗田さんは天照御魂といふものを、全體今の天火明命と決めようといふことで此の説を採らずに火明命と決めたらしいのであります。併し又土地の傳説に依りますと矢張り是は天照大神を祀つたのだというて居る人もあるやうであります。それから其の次の大和の城上郡の他田坐天照御魂神、是は伴信友は志貴連の祖神天照饒速日命だとして居ります。其の次の鏡作坐天照御魂神社といふのが昔からの説では天火明命だといふ説があります。そして又饒速日命の末孫が鏡作氏になつて居るので、そこは栗田さんの説と違つて來まして、鏡作といふものが饒速日の末孫であるとすれば、それは栗田さんのやうに尾張氏と物部氏とをはつきり分けた説が少し怪しくなつて來ます。兎に角鏡作が之を祀つて居つたことがあるといふことになつて居ります。攝津國島下郡の新屋坐天照御魂神社は栗田さんの説では天火明命に決めてしまつた。けれども是は三座に神樣がなつて居りまして、其の中の一座だけは土地の昔からの傳へでは天照大神としてあります。是は其の土地の傳説では神功皇后が三韓征伐で歸られた時に天照大神の御靈を祀つたのだといふ説になつて居りまして、詰りはつきり分らないのであります。それから丹波の天田郡にありますのは是は栗田さんの説が餘程たしかな所がありますので、元來丹波の國造といふものは尾張氏と同じ家から出て、皆天火明命の末孫だといふことになつて居ります。尤も丹波氏といふものは二通りありまして、外國から來た丹波氏といふものは後漢の靈帝の末孫と言はれて居るのでありますけれども、是は丹波の國造の所にあるのでありますから、之を外國へ持つて行くやうな心配はないと思ひます。兎に角是だけは天火明命といふのが餘程根據のあることになるのであります。播磨の國の揖保になりますと最も厄介なのであります。揖保坐天照御魂社といふのは其の土地では伊勢の宮と稱して居りまして、又伊勢村といふ所にある。伊勢の大神宮に關係があるのぢやないかといふことを考へますと、又一方にそれと反對のことも出て來る。それは三代實録に據りますと、此處に伊福部氏が居つた。揖保郡人伊福某と出て居ります。伊福部は又之を五百木部とも書きます。此の伊福部といふのは火明命の末孫である。其處の氏人が其の火明命を祀つたといつて宜しい。又現に地名などを見ますと伊勢村といふ所にあつて、伊勢の宮に關係があると考へることも出來る。兎に角斯ういふ大變煩はしいものが畿内並に其の附近地方の周圍に幾つかありまして、大和の國には二つありますが、主な國々に一つ位殆ど天照といふ字を冠つた神社があります。一方から云ふとそれが伊勢の皇太神宮に關係があるやうにもあり、一方から云ふと關係がなくて火明命に關係があるやうにもある。丹波の國のなんぞは是は天照大神を方々の國を擔いで歩いた時に、倭姫命などが其處へ持つて來たので其處に天照大神があるのだといふ風のことを言つて居る。兎に角近畿地方にある天照といふ字を冠つた神社といふものはさういふやうな疑問の下に置かれて居りまして、果してそれが伊勢の皇太神宮に關係があるか尾張氏の先祖の天火明命を祀つたものであるか判斷がつかぬ。此の研究をしますと詰り尾張氏並に物部氏といふものが神武天皇が大和の國に入られる前に此の地方で非常に盛であつた氏でありますから、其の氏の確かな研究が少し出來かゝつて來たら、其の氏といふものゝ當時のことが餘程分ると思ふ。それから又皇太神宮との關係ももう少しはつきりしたならば、此の土地へ神武天皇が入つて來られてから今の皇室が大きく發展して、そして此の地方を完全に統御するまでの其の來歴が各神社の状態に依つて分るのであらうと思ひます。それで大に研究すべきものだと思ひますが、私は無論それ等の材料を有ちませぬし、是から國史をやつて材料を集めて研究しようといふ程の考もありませぬ。唯之を研究しないといふと近頃のやうに唯神樣を拜めといふことを無暗に言つても實際此の土地が皇太神宮の威徳に服するまでの由來が分らないと思ふ。さういふことを少し國學をやる人、神職などの人が研究して見たら宜からうと思ふので、此の問題を茲に提供したのであります。是は私は必ずしも今日結論を有つて居りませぬから、たゞ問題を提供するまでに止めます。斯ういふやうな色々な疑問は神祇志、又は神祇志料、其他の本を讀んだりなんぞした時に、まだ/\澤山有つたことがありますので、其の中に近畿に關係あるものゝ又一部分を茲に御話して見たゞけのことであります。
[#地から1字上げ](大正八年八月史學地理學同攻會講演)
底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房
1969(昭和44)年4月10日発行
1976(昭和51)年10月10日第3刷
底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂
1930(昭和5)年11月発行
初出:史学地理学同攻会講演
1919(大正8)年8月
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年9月26日公開
2006年1月14日修正
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