りの模樣でありますと、革命になると前から尊敬して居つた偉い人の祠などでも皆打ち壞して新らしいものを祀つて居るといふ譯でありますが、日本は一つは風俗の敦い所からでもありませう、一つは又さういふことをしますと能く祟つたものでありますから、神樣を取除けると必ずそれが祟るといふので、大方祟りの爲めに昔からあるものは其のまゝ据ゑてあつた。それで柊社といふものは地主の神と稱して居る。元來其處が柊社が有つて居つた所で、後から入つて來た者がそれを占領したのでありますから、前の神樣を地主の神として尊敬して居つたのであります。それから高野の方でもさういふ風にして、小野神社といふものは加茂御影社といふ風に變つてしまふやうになりました。それで加茂の族といふものは非常に繁昌して近代まで存續した。其の後になりますと平安朝の以後から神社はどうなるかといふと、時々一つの氏が他の氏に侵略されるといふことに依つて變るよりも、佛教が起つた爲めに寺の方から神社が侵略された。叡山などが好い例であります。叡山は御承知の如く日枝神社といふものがある。大日枝、小日枝といふ大小の日枝神社がありますが、小日枝と稱する方は大山咋《おほやまくひ》神が祀つてありまして、今の加茂の別雷神のお父さんであると言はれて居る神樣、丹塗の矢になつて來て加茂の建角身命の娘さんに孕ました大山咋尊がそれであるといふことであります。それが小日枝でありまして、元來の神社であります。然るに傳教大師があの山を開きました時に自分の信仰する神樣を連れて來て其處に鎭守させる。それは大和の三輪の神樣であります。そして彼處に鎭守させたのが大日枝の神社であります。昔からの小日枝の方は山の下へ下げましたが、昔からある神樣でありますから矢張り地主の神としてあります。是は二重の手數でありまして、お寺が神社の領地を占領する爲に、直ちに其のまゝ占領せずに、矢張り餘所から神樣を連れて來て、其の神樣に占領させて、是が自分の鎭守の神樣だと稱して彼等が其處を支配して居つた。二重の手數を致して居りますが、それ位の必要は當時神社の領地を占領するに就てあつたものと見えます。さういふことで段々變動して、平安朝の頃からは佛教の方で神社を占領するやうになりましたが、それから後鎌倉頃になりますと、武家が寺、神社の領地を占領するやうになりました。武家といふものはいたつて信仰の範圍の狹いもので、
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