が、歴史上小野氏といふものはどういふ系圖を引いて居るかと申しますと、孝昭天皇の末孫であつて、それから系圖を引いて小野氏といふものが出來たことになつて居ります。其の先祖の神社が近江國の滋賀郡に小野神社といふものとなつてありまして、そして小野氏が段々に盛になつた時に山を越えて山城の北部まで領分を擴げて來て、小野毛人の墓などが高野の崇道神社の裏に造られるやうになつたのであらうと思ひます。さう考へて見ますと、京都の北部全體が出雲氏の關係であつた時から見ると大分後であると思ふ。小野妹子時代といふものははつきり分つて居る時代でありますが、其の前の出雲氏のことは殆ど記録にも何にもなつて居ないので、唯神社に依つてさういふものがあつたやうに思はれるだけであります。さうすると京都の北部といふものは時代の分らない前に出雲氏の關係のあつた土地であつたが、丁度歴史の始まる時代、即ち聖徳太子の前後頃からして近江の方に根據を有つて居つた小野氏の支配に何時となく入つて、それから後に加茂の關係が生じて來たのであらうと考へられます。上加茂の方は古いかも知れませぬ。鴨建角身命の娘から加茂の別雷神が生れたといふのでありますから、大分古いかも知れませぬ、併しそれは兎に角、加茂の一部分の山奧に神社があつたのが、加茂の氏人が段々擴つて來て、ことに京都が帝都になりました關係から、其の時分の大きな神社を一般に尊敬するやうになりましたり、或は又天子が尊崇される神樣とか、或は其の他の大きな神社といふものが段々世に尊敬されて行きました。大和地方などでも龍田などは天武天皇が特別に尊崇されたからそれが盛になつた。一體それがどういふ譯で尊崇されたか分らぬが、兎に角天子が特別に尊崇されることになるとそれが繁昌することになります。加茂も此處に帝都が遷されて特別に加茂神社が尊敬されたのであらう。其の尊敬された由來も色々ありませうが、それまでやりますと餘り諄くなりますからやめて置きますが、それで段々加茂の氏人が擴つて來て、元の出雲氏の占めて居つた京都の北部地方を段々占領しまして、出雲井於神社といふもとの神樣は隅の方に押遣られて、其の大部分は下加茂の境内になつてしまつたといふ形になつたのでありますが、併し其處を占領したからといつて、他の氏族が崇敬して居つた神社を無暗に取拂つて仕舞ふといふことはしないのが我が古の習俗である。此の節の支那邊
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