ありますが、温祚と關係があるかと思つて居ります。マア其方はどうでも宜いとして、兎に角この仇首王といふのが、百濟では大關係のある王であります。時としては仇首といふ文字が朝鮮の本の他の所では首の字に※[#「二点しんにょう」、第4水準2−89−74]が付いて仇道となつたのもあります。それから百濟の國のことを支那の方で書きました後周書、隋書、北史などに依りますと、百濟の國の起り初めを温祚でなくして、仇台といふ人が百濟の國を起したのである。元來百濟といふものは高句麗と同じ先祖で夫餘から分れたのでありますが、其の分れた時に仇台といふ人が分れた。是が百濟の國を起したといふことになつて居ります。又もう一つ遡りますと高句麗といふものは夫餘國と同じ種族であるとなつて居りますが、夫餘國の主な王の名前に尉仇台といふものがあります。「尉」といふのは人の名前ではありませぬ。支那で漢の時代の地方行政區劃は郡と國で、郡の頭は太守でありますが、太守の領分を二つか三つに分けて都尉といふものが之を支配し、又縣には尉がありました。尉仇台といふのは都尉又は縣尉の仇台といふ意味でありまして、其の時代に支那に境を接した夷狄の土着民は都尉や縣尉といふものを大變に偉いものだと思つて居りましたから、尉といふ語を自分の頭に冠るのが皆大變偉いことゝ思つた。日本でも左衞門尉とか右衞門尉とか左兵衞尉、右兵衞尉といふやうなものは朝廷では極く低い官ではありますが、それが鎌倉時代頃に田舎へ行くと豪族などは偉いものだと思つて、何兵衞尉と名のることを大變名譽であると思つたと同じことであります。尉の字を冠るのが名譽として居つたので、それを名前の上に付けたので、名前は仇台であります。三國史記には又優台ともしてありますが、是は尉仇台のつまつた音だと思ひます。兎に角仇台といふ者が夫餘並に百濟で國を起したといふことが昔からあるのであります。其の名前の人は後になつても偉い王が出て來ると屡々現はれて來ます。詰り仇首も仇道も同じ音であつたので、「くど」の音であつたと思ひます。又仇台が「くど」と讀まれるのは、「台」の字は日本紀などには「と」と讀んであります。それで仇台も「くど」仇首も仇道も「くど」で其の音がどうかした關係から、貴首又は貴須とも響くのでありますが、要するに「くど」といふ音の變化だと思ひます。それで今日朝鮮の方に遣つて居る歴史に據ると、温祚
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