ではありませぬけれども、桓武天皇樣の母、皇太后の又母方の家の神樣だ、比※[#「口+羊」、第3水準1−15−1]神といふのは母方の神樣だと斯うしました。多分久度神といふのは、今の竈のことを私の國などでも「くど」と申して居りますが、竈の神であつて同時に大和の國で桓武天皇の皇太后の母方の家の方で祀つて居つた竈の神があつて、それを勸請して來たとある。斯ういふ考へである。兎に角其の中、今木神といふのは聖明王に違ひないと考へた。是は餘程面白いことでありますけれども、それは誰方でも國書刊行會の伴信友全書を御覽になりますれば分りますから、私がくはしく述べる必要はありませぬ。併し伴信友の考證に幾らか不滿足なことがありますので、それに餘計なことを付加へて見たいと思ふ。
それは今木神といふのは大和の地名だと考へた。久度といふのも方々にありますから矢張り地名と稱してあるのであります。併し大和邊りで新漢《いまきのあや》とか何とかいふことがありまして、新《いまき》といふのは或る氏が今外國から新らしく來た、今來た所の種族が居つたので、それで「いまき」の何某といつたので、元來は今來とも書て、今木といふのは地名でないと思ひます。新らしく來た種族が居たので今木といふことが頭に冠るやうになりました。それでありますから今木神といふのは、今木を大和の地名にする必要はないので、新らしく來たので、即ち外國から來た神といふ意味であります。
それから久度でありますが、是は信友も朝鮮の書物を讀みましたけれども、到頭それに氣が付かなかつたと見えます。私の考へでは聖明王の先祖を祀つたのだと思ひます。それは百濟の國の開闢に就て餘程有力な王があります。朝鮮の歴史の中で尤も古い三國史記では百濟の國の先祖と言はれて居るのは温祚王といふことになつて居ります。其の數代後を肖古王といふ、それから其の次を仇首王。それで此の肖古、仇首といふ二代の時に百濟の國が大變大きくなりまして、其後此の王の頭に近の字を冠せた近肖古王、近仇首王といふ人がありまして、其の時に又非常に盛になりました。兎に角肖古王、仇首王といふ時は百濟の國が大變に發展した時代であります。所で此の仇首王といふ人は三國史記にも或は貴須といふとありまして、日本の姓氏録でも、「貴首王」と書いてあります。或は「陰太|貴首《きす》王」とも書いてあります。「陰太」といふのは分らないので
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