苗錢の如き低利資金融通法も、人民が土地の收穫を自由に處分する事を認める意味とも解さるゝ。又從來の差役を改めて雇役とし、隨分反對者の攻撃を受けたが、此雇役制度は尤も當時の事情に適せるを以て、後に司馬光が王安石の新法を改めた時に、新法反對論者の中にも、蘇東坡始め、差役を復舊することはこれを否なりとした人が多い。支那は人民の參政權を認むるといふことは全くなかりしも、貴族の階級を消滅せしめて、君主と人民と直接に相對するやうになつたのは、即ち近世的政治の状態となつたのである。
 又官吏即ち君主と人民との中間の階級も選擧となつた。勿論この選擧とは、今の代議政治の如く代議的ではなくして、一種の官吏登用の形式を指すものなるが、即ち選擧の方法が貴族的階級からの登用を一變して、試驗登用、即ち科擧となつたのである。六朝時代には天下の官吏を九品中正の方法で選擧し、全く貴族の權力で左右したのであつて、當時の諺に上品無寒門、下品無勢族といふ事があつたが、隋唐以來此弊を破るために科擧を行ふことゝなつた。然し唐代の科擧は其方法が矢張依然として貴族的なりしが、これも宋の王安石時代から一變した。即ち唐代より宋の初期の科擧
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