は帖括と詩賦とを主とした。經書を暗誦する力を試驗するのが帖括で、文學上の創作力を試むるのが詩賦である。夫れ故、其試驗は學科の試驗といふよりは、寧ろ人格試驗と文章草案の力とを試驗するといふ方法であつた。處が王安石の制度では帖括に代ふるに經義を以てし、詩賦に代ふるに策論を以てした。經義は經書の中の義理に關して意見を書かせ、策論は政治上の意見を書かせた。勿論これも後には、經義は單に一時の思ひ付きを以て試驗官を驚かす文章の遊戲と變じ、策論も單に粗末な歴史上の事蹟を概説するに過ぎないものとなつて、實際の政務とは何等の關係もなくなつたが、兎も角これを變ずるだけは、從來の人格主義から實務主義に改むるのが目的である。試驗に應ずるものも、唐代では一ヶ年に五十人位より及第しなかつたが、明以後、科擧の及第者は非常に増加して、或時は三年に一度であるけれども、數百人を超え、ことに應試者は何時でも一萬以上を數ふる事となつた。即ち君主獨裁時代に於て、官吏の地位は一般庶民に分配さるゝことに於て、機會均等を許さるゝ事となつたのである。
 政治の實際の状態に於ても變化を來して、殊に黨派の如きは其性質を一變した。唐の時にも
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