かゝる場合なかりしために、君主は臣民全體の代表者にあらずして、夫自身が絶對權力の主體となつた。しかし兎も角、君主の位置は貴族時代よりは甚だ安全となり、從て廢立も容易に行はれず、弑逆も殆んどなくなつた事は宋以後の歴史は其然るを證明する。尤も元代のみは頗る異例がある。これは蒙古文化の程度によるので、蒙古の文化は支那の同時代に比較すると甚しく遲れて、却て支那の上古時代と同程度であるのに、支那を征服せるがために、突然に近世的の國家組織の上に君臨したのであるから、其帝室には依然として貴族政治の形骸が殘つて居り、民政の方のみが近世的色彩になつたから、一種の矛盾した状態をあらはしたのである。
貴族政治の時代には、貴族が權力を握る習慣であるから、隋の文帝・唐の太宗の如き英主が出で、制度の上に於ては貴族の權力を認めぬ事にしても、實際の政治には尚其形式が殘つて、政治は貴族との協議體となつた。勿論この協議體は代議政治ではない。
唐代に於ける政治上の重要機關は三つあつた。曰く尚書省、曰く中書省、曰く門下省である。その中で中書省は天子の祕書官で、詔勅命令の案を立て、臣下の上奏に對して批答を與へることになつて
前へ
次へ
全17ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング