を超越して占むる事ありても、既に君主となれば貴族階級中の一の機關たる事を免るゝ事が出來ない。即ち君主は貴族階級の共有物で、その政治は貴族の特權を認めた上に實行し得るのであつて、一人で絶對の權力を有することは出來ない。孟子は嘗て卿に異姓の卿と、貴戚の卿とあつて、後者は君主に不都合あればこれを諫め、聽かざればこれを取り換へるといへる事があるが、かゝる事は上代のみならず、中世の貴族政治時代にも屡々實行された。君主は一族即ち外戚從僕までも含める一家の專有物で、從てこれ等一家の意に稱はないと廢立が行はれ、或は弑逆が行はれた。六朝より唐に至るまで、弑逆廢立の多いのは、かゝる事情によるので、この一家の事情は多數の庶民とは殆んど無關係であつた。庶民は國家の要素として何等の重きをなさず、政治とは沒交渉である。
 かくの如く君主は單に貴族の代表的位置に立つて居つたのは中世の状態なるが、近世に入りて其貴族が沒落すると、君主は直接に臣民全體に對する事となり、臣民全體の公の所有物で、貴族團體の私有物でなくなつた。かくして臣民全體が政治に關係する事となれば、君主は臣民全體の代表となるべき筈のやうであるが、支那には
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