は一兩が二十四銖と算せられた。宋以後一兩を十錢と計算することゝなり、即ち一錢が二銖四※[#「(ム/(ム+ム))/糸」、117−17]に當る。元來開元通寶一文が重量二銖四※[#「(ム/(ム+ム))/糸」、117−17]で、十文が一兩となるのであるから、宋代よりは重量の名稱を廢して錢の箇數であらはすことゝなり、これによりても錢の使用の當時如何に盛大なりしかを知るに足るのである。日本で重量の名稱を一匁(一文目)といふ如きは、支那の錢の名稱を逆に使用したものである。
 學術文藝の性質も著しく變化して來た。假に之を經學文學で説いて見れば、經學の性質は唐代に於て已に變化の兆候をあらはした。唐の初期までは、漢魏六朝の風を傳へて、經學は家法若くは師法を重んじた。昔から傳へ來つた説を以てこれを敷衍する事は許されたが、師説を變じて新説を立てる事は一般に許されなかつた。勿論其間には、種々の拔道を考へて、幾度も舊説を變じたるも、公然とかくの如き試みをする事は出來ない事であつた。其結果、當時の著述は義疏を以て主とした。義疏とは經書の注に對して細かい解説をしたので、これが原則としては疏不破注といふ事になつて居る。
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