は一兩が二十四銖と算せられた。宋以後一兩を十錢と計算することゝなり、即ち一錢が二銖四※[#「(ム/(ム+ム))/糸」、117−17]に當る。元來開元通寶一文が重量二銖四※[#「(ム/(ム+ム))/糸」、117−17]で、十文が一兩となるのであるから、宋代よりは重量の名稱を廢して錢の箇數であらはすことゝなり、これによりても錢の使用の當時如何に盛大なりしかを知るに足るのである。日本で重量の名稱を一匁(一文目)といふ如きは、支那の錢の名稱を逆に使用したものである。
學術文藝の性質も著しく變化して來た。假に之を經學文學で説いて見れば、經學の性質は唐代に於て已に變化の兆候をあらはした。唐の初期までは、漢魏六朝の風を傳へて、經學は家法若くは師法を重んじた。昔から傳へ來つた説を以てこれを敷衍する事は許されたが、師説を變じて新説を立てる事は一般に許されなかつた。勿論其間には、種々の拔道を考へて、幾度も舊説を變じたるも、公然とかくの如き試みをする事は出來ない事であつた。其結果、當時の著述は義疏を以て主とした。義疏とは經書の注に對して細かい解説をしたので、これが原則としては疏不破注といふ事になつて居る。然るに唐の中頃から古來の注疏に疑を挾み、一己の意見を立てる事が行はれた。其尤も早いのは春秋に關する新説である。其後宋代になると此傾向が極端に發達して、學者は千古不傳の遺義を遺經から發見したと稱し、凡て自己の見解で新解釋を施すのが一般の風となつた。文學の中でも、文は六朝以來唐まで四六文が流行したが、唐の中頃から韓柳諸家が起り、所謂古文體を復興し、凡ての文が散文體になつて來た、即ち形式的の文が自由な表現法の文に變つて來た。詩の方では六朝までは五言の詩で、選體即ち文選風のものが盛んであつたが、盛唐の頃から其風一變し、李杜以下の大家が出て、益々從來の形式を破る事につとめた。唐末からは又詩の外に、詩餘即ち詞が發達して來て、五言・七言の形式を破り、頗る自由な形式に變化し、音樂的に特に完全に發達して來た。其結果、宋から元代にかけて曲の發達を來し、從來の短い形式の敍情的のものから、複雜な形式の劇となつて來た。其詞なども典故ある古語を主とせずして、俗語を以て自由に表現するやうに變つた。これがために一時は貴族的の文學が一變して、庶民的のものにならんとした。
又、藝術の方では、六朝・唐代までは壁畫が盛に行
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