、宋の時にも、朋黨が喧かりしが、唐の朋黨は單に權力の爭ひを專らとする貴族中心のものにして、宋代になりては、著しく政治上の主義が朋黨の上に表はれた。これは政權が貴族の手を離れてから、婚姻や親戚關係から來る黨派が漸次衰へて、政治上の意見が黨派を作る主要なる目的となつたのである。勿論この黨派の弊害は、政治上の主義から來たものでも、漸次貴族時代と類似したものとなつて、明代にては、師弟の關係、出身地方の關係などが重にこれを支配して、所謂君子によりて作られた黨派も其弊害も、小人の黨派と差別がなくなり、明は遂に東林黨のために滅亡したといはるゝに至り、清朝にては甚だしく臣下の黨派を嫌ひ、其ために君主の權力を益々絶對ならしめた。
經濟上に於ても著しき變化を來した。唐代では有名な開元通寶の鑄造を行ひ、貨幣の鑄造は引續き行はれしも、其流通高は割に少ない。貨幣の流通が盛んになりしは宋代になつてからである。唐代は實物經濟といふ譯ではないけれども、多く物の價値を表はす貨幣の利用を、絹布によりて行つた。然るに宋代にありては、絹布、綿などの代りに銅錢を使用する事となり、更に發達すると紙幣さへ盛んに用ひられた。紙幣は唐代からして已に飛錢といつて、これを用ひたといふ事であるが、宋代に至りては其利用が非常に盛んで、これを交子、會子等と稱し、南宋時代は紙幣の發行高は非常の額に上り、其ために物價の變動も甚しかつた。兎も角充分に利用され、次の元代に於ては殆ど、銅錢鑄造の事なくして、單に紙幣のみを流通せしむることゝなつた。明以後不換紙幣政策が極端に行はれたので、遂に敗滅せるが、要するに宋代に入りて貨幣經濟が非常に盛んになつたといふ事が出來る。銀も此頃よりして漸次貨幣として重要の位置を占むる事となり、北宋時代などは僅かの流通にとゞまりしも、南宋に至りては餘程盛んになりしものらしく、元の伯顏が南宋を滅ぼして北京に歸る時に、南宋の庫から收得した銀を、北京に運ぶために一定の形に鑄造したのが、今日の元寶銀の始めだといはれて居るから、宋末には餘程流通をしたものと見える。明清に至り益々此傾向盛大となり、終に全く銀が紙幣の位置を奪ふに至つた。兎も角、唐宋の代り目が、實物經濟の終期と貨幣經濟の始期と交代する時期に當るので、其間に貨幣の名稱なども自然に變化を來した。昔は錢も兩とか銖とかで稱へられたが、これは勿論重量の名稱にて、昔
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