苗錢の如き低利資金融通法も、人民が土地の收穫を自由に處分する事を認める意味とも解さるゝ。又從來の差役を改めて雇役とし、隨分反對者の攻撃を受けたが、此雇役制度は尤も當時の事情に適せるを以て、後に司馬光が王安石の新法を改めた時に、新法反對論者の中にも、蘇東坡始め、差役を復舊することはこれを否なりとした人が多い。支那は人民の參政權を認むるといふことは全くなかりしも、貴族の階級を消滅せしめて、君主と人民と直接に相對するやうになつたのは、即ち近世的政治の状態となつたのである。
 又官吏即ち君主と人民との中間の階級も選擧となつた。勿論この選擧とは、今の代議政治の如く代議的ではなくして、一種の官吏登用の形式を指すものなるが、即ち選擧の方法が貴族的階級からの登用を一變して、試驗登用、即ち科擧となつたのである。六朝時代には天下の官吏を九品中正の方法で選擧し、全く貴族の權力で左右したのであつて、當時の諺に上品無寒門、下品無勢族といふ事があつたが、隋唐以來此弊を破るために科擧を行ふことゝなつた。然し唐代の科擧は其方法が矢張依然として貴族的なりしが、これも宋の王安石時代から一變した。即ち唐代より宋の初期の科擧は帖括と詩賦とを主とした。經書を暗誦する力を試驗するのが帖括で、文學上の創作力を試むるのが詩賦である。夫れ故、其試驗は學科の試驗といふよりは、寧ろ人格試驗と文章草案の力とを試驗するといふ方法であつた。處が王安石の制度では帖括に代ふるに經義を以てし、詩賦に代ふるに策論を以てした。經義は經書の中の義理に關して意見を書かせ、策論は政治上の意見を書かせた。勿論これも後には、經義は單に一時の思ひ付きを以て試驗官を驚かす文章の遊戲と變じ、策論も單に粗末な歴史上の事蹟を概説するに過ぎないものとなつて、實際の政務とは何等の關係もなくなつたが、兎も角これを變ずるだけは、從來の人格主義から實務主義に改むるのが目的である。試驗に應ずるものも、唐代では一ヶ年に五十人位より及第しなかつたが、明以後、科擧の及第者は非常に増加して、或時は三年に一度であるけれども、數百人を超え、ことに應試者は何時でも一萬以上を數ふる事となつた。即ち君主獨裁時代に於て、官吏の地位は一般庶民に分配さるゝことに於て、機會均等を許さるゝ事となつたのである。
 政治の實際の状態に於ても變化を來して、殊に黨派の如きは其性質を一變した。唐の時にも
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