いてないと言ふことですが、塙檢校の調べによると、源平盛衰記、太平記などにも載つて居るさうであります。勿論其時代にはこれがまだ少しも重要な位置には居らなかつたのです、所がこの應仁の亂のため此足輕といふ階級が目立つやうになつたのです。それで
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昔より天下の亂るゝことは侍れど、足輕といふことは舊記などにもしるさゞる名目也。平家のかぶろといふ事をことめづらしきためしに申侍れ。此たびはじめて出來たる足がるは、超過したる惡黨なり、其故に洛中洛外の諸社、諸寺、五山十刹、公家、門跡の滅亡はかれらが所行也。かたきのたて籠たらん所におきては力なし、さもなき所々を打やぶり、或は火をかけて財寶を見さぐる事は、ひとへにひる強盜といふべし、かゝるためしは先代未聞のこと也。
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と斯う書いてあります。一體應仁の亂に實際京都で戰爭があつたのは僅か三四年の間であります。十年間も續いた亂であると申しましても、京都に戰爭のあつたのは三四年間でありますが、其三四年間ばかりの間に洛中洛外の公卿門跡が悉く燒き拂はれたのであります。而もそれが悉く足輕の所行でありましたので、其事が樵談治要
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