す、それで延暦の儀式帳などにも、人民の拜禮のことはないといふことであります。此時分には朝廷より十分の御保護があつて、神宮に仕ふる家々も何不足なく暮して居つたのですが、鎌倉足利と引き續き朝廷がだん/″\衰微して來るといふと、伊勢の大神宮にいろ/\差上げる貢物がだん/″\出來なくなつて來たのです、さうして最も烈しい打撃は應仁の亂の前後から起て來たのであります。所がさういふ時には又其時相應な智慧が出るものでありまして、京都吉田山へ伊勢の大神宮が特別に飛移られたといふことを、吉田の神主が唱へ出した。うまい處へ付け込んだもので、さうすると朝廷でも大いに負擔を免れて結構な事であるから、已に之に從はんとせられたが、伊勢の禰宜たちからやかましく訴訟して、飛移り一件は消滅したけれども、此頃から神宮は益々維持費を得ることが困難になつて來たので、そこで考へられたのが御師《オシ》等が維持策としての伊勢の講中と唱へるものであります。即ち神宮へ參詣する講であります。是は平田篤胤などの國學者の説では、佛家の方の講のしかたを應用して伊勢の講中が出來たのだといふことを言つて居りますが多分さうでせう。其講中が出來ると、朝
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