のある文字を用ゐて書名の中に豐原といふことを現はしたのであります。此家は代々笙の家でありまして、今でも其末孫が豐《ブンノ》某と言つて在りますが、此の豐原といふ人が體源抄を書いた序文を見ますと、其當時の戰爭が應仁元年正月上御靈の戰爭の頃からだん/\烈しくなつて來て、さうして天子も室町の足利の第に行幸される、それは足利に行幸されたと申しまするが、實は細川勝元が何かの時に自分の都合のために臨時行幸を仰いで取り込めておいたのであります。さういふ事からして非常に世の中が騷動になつて、樂人の祕傳などを傳へることが却々難儀でありましたが、其間において兎に角自分で非常に難儀して先祖代々の祕傳を傳へたといふことがそれに委しく書いてあります。さうして體源抄といふのはよほど大部の著述でありますけれども、それが單に音樂の祕傳を傳へるといふことばかりでなしに、何んでも自分が覺えただけのことは皆書込んで居るのであります。そして此人は法華經の信者で何かといふとすぐ南無妙法蓮華經を書いて居ります。今日から見れば殆ど著述の體裁をなさぬと言つてもいゝ位でありますけれども、實際應仁の亂に會つた人の考から見ると、少しでも昔か
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