とのたまふよし孝庸の説と云々
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何もかも源氏物語で濟む、當時の學問といふものは源氏物語一つあればそれでいゝといふので、源氏は詰りよく一般の世態を知つて世の中を經綸するために唯一の大事な經典であるとされて居つたのであります。源氏物語を以て國民思想を統一するなどといふことは今日の文部省などの思ひもよらぬ所であります(笑聲起る)。一般には亂世で政治上殆ど何等統一などのなかつた時代に、何か或る者で統一しようといふ考が一般の人に出來て參りまして、此等の傳授によつて其の祕訣に達することが、文化的に世の中を統一すべき智識を得る所以であると思つてゐたのですが、そこらはよほど面白い所であります。是は即ち日本の亂れた時代に於ても尚且是を統一に導く所の素因が出來て居つたといふことを示すものであります。
尚智識普及に於て一つ例を言ひ殘しました。それは私共漢學の方でありますが、漢學の方も其當時に於て一つの變化を示しました。即ち漢學といふものもやはり貴族の學問から一般の學問になる一つの段階を作つたのであります。漢學の一つの大きな變化といふのは、昔は古注の學問、其頃は四書五經とは申しませぬから五經でありますが、其古注即ち漢唐以來の注を用ゐて居つたのが朝廷の學問であります。それが徳川時代に宋以後の朱子の學問が行はれまして一般に擴まりましたが、古注の學問は貴族の學問であり、新注の學問は一般國民の學問であります。此新注の學問が應仁の亂の頃から弗々起つて來ました。後醍醐天皇の時に玄惠法印が新注の講釋をしたと言はれてゐますが、後醍醐天皇のお考は、單に凡ての古來の習慣を打破しようといふのであつて、其御考は失敗に終りましたが、さういふ御考へ、即ち古來の習慣を打破しようとされた御遺志が應仁の亂の上に現はれてゐると言つていゝのであります。
康富記といふ有名な記録がありますが、是に清原頼業といふ高倉天皇に侍讀した人の事が出て居ります。清原家は代々經學の家でありますが、此頼業が禮記の中の中庸を非常に重じて是を特別に拔き出して研究されたといふことが、康富記に書いてあります。是が宋の朱子の考と暗合して居るといふので偉いといふ事になつて居つた人でありますが、私は或る時、頼業の事を調べる必要があつて、帝國圖書館にある原本を見まして、どうも可笑しいと思ひました。頼業が果してさういふことを言つて、それが足利時代まで其話が傳はつたといふのであるか、どうも疑はしいと思ひました。是は南北朝時代から新注が流行つて大學中庸といふものが禮記の中から特別に拔き出されて尊重されて、それが清原家の學問にも響いて來た結果、かういふ話が出來たのではなからうかと思ひまして、なくなられた田中義成さんに申しました所が、是は贋せ物だ、當時の人の作り話しだらうといふ田中さんの考でありました。足利時代から大學、中庸に限つて新注を採用したのであります。詰り漢學の上に新思想が行はれて、經書の學問は清原家では古注を用ゐるのが古來の仕來りであるけれども、大學、中庸だけは新注を採用するといふ事になつて、今迄の主義を改めるのに何か理窟がなければならぬために、頼業が斯ういふことを言ひ出したといふ話が作り出されたのだらうかと疑はれます。所で此新注は支那でもさうであるが、殊に日本に於て學問を平民に及ぼした有力なる學派であります。さういふ事が足利時代になりまして漢學の上に於ても貴族から平民に移るべき段階を此時代において開いて居つたのであります。
かくの如く應仁亂の前後は、單に足輕が跋扈して暴力を揮ふといふばかりでなく、思想の上に於ても、其他凡ての智識、趣味において、一般に今迄貴族階級の占有であつたものが、一般に民衆に擴がるといふ傾きを持て來たのであります。是が日本歴史の變り目であります。佛教の信仰に於ても此の變化が著しく現はれて來ました。佛教の中で、其當時に於ても急に發達したのが門徒宗であります。門徒宗は當時に於ては實に立派な危險思想であります(笑聲起る)。一條禪閤兼良なども其點は認めて居るやうでありまして「佛法を尊ぶべき事」と書いてある箇條の中に、「さて出家のともがらも、わが寶を廣めんと思ふ心ざしは有べけれど、無智愚癡の男女をすゝめ入て、はて/\は徒黨をむすび邪法を行ひ、民業を妨げ濫妨をいたす事は佛法の惡魔、王法の怨敵也、」と書いてある。一條禪閤兼良は門徒宗のやうな無暗に愚民の信仰を得てそれを擴める事に反對の意見をもつて居りますが、其當時に於てすでにさういふ現象があつたといふことが分ります。それは兼良が直接さういふ状態を見て居りました處からさう感じたのだと思ひますが、引續き戰國時代に於て門徒の一揆に依て屡々騷動が起り、加賀の富樫など是がため亡んでしまひ、家康公なども危く一向門徒の一揆に亡ぼされる所でありました。
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