した。即ち其當時最も盛んに研究された――研究されたといふよりは寧ろ信仰の目的になつた本は何かといふと、日本紀の神代の卷であります。一條禪閤兼良の日本紀纂疏といふのも神代の卷だけの註を書いたもので、是は有ゆる和漢の例を引いて非常な博識を以て書いて居りますが、其目的はやはり日本紀の神代の卷を尊い經典にするため書いたのであります。此傾きは必ずしも一條禪閤兼良から來た譯ではなく、もう少し前からでありますが、それはやはり蒙古襲來などがよほど大きな影響を持つてゐるやうであります。そしてその蒙古襲來の時、國難が救はれたのは全く神の力だといふ考が一般に起つて來ましたが、南北朝頃から北畠親房、忌部正通など「日本は神國なり」といふやうなことを云ひ出しました。其後徳川の時代になつて林道春が「神社考」を書いた時にも、日本は神國なりと言ふことを書いて居ります。さういふ譯で應仁の亂頃にも外に對しては南北朝以來の思想が續いて來て居りまして、日本紀の神代の卷は立派な經典となり、支那の四書五經といふやうな考になりました。是は日本といふ國が如何なる騷亂の間に年が經ちましても、皇室はちやんと存在して、いつ迄も日本の眞の状態といふものは變らない、一定不變のものがあるといふことを主張する代りに、日本紀の神代の卷といふものが立派な一つの經典となつたのであります。是等は當時の信仰状態の變化といはれないが、從來不確實だつた信仰状態が、此時代に於て確定することになつて來たと言つていゝのであります。此應仁時代は亂世でありますけれども、さういふ國民の思想統一の上には非常に效果があつたと言へるのであります。
 それから一つは其當時の公卿などの生活状態から來たのでありますが、公卿の生活状態が困難な處からして、神社とか寺院とかゞ一般の信仰に依つて維持される事を考へたと同じやうに、公卿も何か自分の家業に依て生活する道を考へるやうになつて、そこにいろ/\な傳授をするといふことが起りました。例へば古今集などの傳授をする事によつて生活するやうになつたのでありまして、是はよほど面白い考であります。それは今日やつてもきつと面白いと思ひます、詰り智識階級の自衞法であります(笑聲起る)。いつでも騷動があると――近頃も少し世の中がをかしくなると一方に資本家一方に勞働者があつて騷ぎ出し、其間でいつも困つてゐるのは智識階級である、こゝに集つてゐる諸君も僕等もさうでありますが、智識階級はいつでも板挾みになります。がそれを如何にして維持するかといふことに就て少しもいゝ智慧を出した奴がない。然るに足利時代のものは之を考へて傳授といふことをやつたのです。詰り傳授に依らなければ凡ての智識が不正確といふことになつて、陰陽道は土御門家がやり、歌を詠むことは二條家、冷泉家がやるといふことになつて、何をするにも傳授に依らなければならないといふことになつて來ました。尤も是は日本ばかりではなく西洋でも中世の加特力教の坊さんなんどがやつぱりさういふ智慧を出して、人間を天國にやる鍵は坊さんが握つてゐる、坊さんに頼まなければ天國に行けないといふやうなことにしてしまつたのです。是は智識階級を維持しようとする時に出て來る智慧でありまして、大學の學問なども是は祕密にして傳授すべきものかも知れぬと思ひます(笑聲起る)。さうすれば斯ういふ處で講演などするのは間違です(笑聲起る)。大學の學問を祕密にして傳授でやり、故なく他人には教へないといふ事にすると智識階級の維持が出來ます(笑聲起る)、で足利時代の傳授はよく其邊の祕訣を心得たもので、凡ての學問が傳授でやつてゐました、歌の方なら古今集中に大切なことを拵へてそれを傳授するといふことになつたのであります。
 それから源氏物語が大變尊重されました。是は藤原時代の小説でありまして、殊に男女の關係について當時の風習を隨分無遠慮に書いた本ですが、是が經國經綸の書として當時の人に尊重されました。詰り神祇や皇室を尊ぶ方の經典としては日本紀の神代の卷でありますが、源氏物語は一般の人情を知り、藝術の神髓を解するための經典として考へられました。足利の末年から豐臣、徳川の頃まで居つた人で有名な細川幽齋といふ人があります。是は戰國時代から古今集の傳授を傳へて居つた唯一の人で、關ヶ原合戰に丹後田邊の城に立て籠つた時にも、古今傳授が絶えるから殺してはならぬと朝廷から御使者を遣はされて戰爭をやめさせた位の人であります。其幽齋が門人の宮本孝庸の問に答へた事として
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ある時に孝庸玄旨法印に世間の便になる書は何をか第一と仕るべきと尋ねさせければ、源氏物語と答へたまひし。又歌學の博學に第一のものはと問はれば同じく源氏と答へさせたまふ。何もかも源氏にてすみぬる事と承りぬ、源氏を百遍つぶさに見たるものは歌學の成就なり
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