廷から保護を受けることの代りに日本の一般人民から受けるといふことになりますので、御師が一般參拜人の取次をして誰でも參拜せしめる仕掛にしたのであります。
 尚是等の事に就ては、平田の前から尾張東照宮の神主で吉見幸和といふ人があり、伊勢の外宮の神主などが唱へる妄説の由來を研究しまして、平田なども是に依つたのであります。元來内宮は天照大神、外宮は豐受大神でありますが、豐受大神といふのは言ふ迄もなく天照大神のお供へ物、――召上る物を掌る神といふ事で、位の低いものであります。所が其位の低い外宮の神主が内宮の神主に對抗して同等なものといふことにするため、いろ/\古くから理窟を作ることを考へました。さうして神道に關する著述も外宮の神主、度會家行などから起つたのでありまして、低い地位に居つた外宮の神主の方が智慧も早く發達して、外部に對し信者を得るといふことを考へました。それで御師も外宮の方が盛んであつたといふことであります。兎に角日本國民一般の參拜を認めてそれに依て維持しようといふことになりました、御師は何國何村は自分の持分といふ風に分けて得意を持つて居りました。それで時々どこの講中を賣買するとか、何百人を讓渡すとかいふやうな證文が今日でも伊勢の神宮文庫の中に所藏されて居ります。
 さういふ風に却々うまい具合に考へまして、朝廷からの保護がなくなると一般人民に依て維持することを考へたのであります。併し是は伊勢ばかりでもありませぬ。寺でもさうでありまして高野山にもあります。高野山の塔頭《タツチユウ》で何々の國は何々院が持てゐるといふ風にして、高野聖といふものが國々を勸化して維持したのであります。さういふ譯で當時朝廷とか主なる貴族即ち藤原氏といふやうなものから保護されて居つたのが、亂世になつてそれが頼まれぬ處から、一般人民の力に依て維持されるやうになつたのは、應仁を中心にした足利時代の一般の状態であります。是に對しては平田篤胤などもよほど面白い解釋をして居りまして、元來昔は制度としては出來ない筈であつたのが、一般にさういふ風に大神宮へ物を奉るやうになり、家毎に神の棚をしつらへて祭りをするといふのは、偏へに神の御心でかやうに成り來つたること申すまでもないと言つて居ります。詰り耶蘇教でいふ神の攝理とでもいふやうなものでありませうが(笑聲起る)是はよほど面白い見方でありまして、貴族時代の信仰か
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