ら傳はつたものは、何んでものちに傳へたいといふ所から何も彼も書き込んだものと思はれます。兎に角騷亂の時に方つて古代文化の一端でも後に傳へたいといふ考が當時の人にあつたのでありませう。
尤も其後になりまして後陽成天皇の時、即ち豐臣秀吉の時代になつて天下が治まるといふと、舊儀復興が盛んになりまして、さういふ僅かに傳へられて居つた本などを根據として凡ての朝廷の儀式を復興しました。勿論昔のやうに完全に復古は出來ないけれども、是等の事は皆斯ういふ人が骨折つて古代の文化を殘さうといふ努力をした效能が現はれたのであります。
併し當時の全體の傾きはそれと違ひまして、凡ての文化といふものが大體特別な階級即ち當時迄政治に勢力のあつた貴族の階級から一般の階級に普及するといふのが、當時の實際の模樣であつたと思ひます。それは一つは自然に已むを得ざる所から來た點もありますが、それらの事を一二の例を擧げて申しますると、まづ伊勢の大神宮の維持法であります。伊勢の大神宮といふものは御承知の通り日本天子の宗廟でありまして大變大切なものであるから、昔から伊勢の大神宮と言へば一般の人民には參拜を許されてなかつたのであります、それで延暦の儀式帳などにも、人民の拜禮のことはないといふことであります。此時分には朝廷より十分の御保護があつて、神宮に仕ふる家々も何不足なく暮して居つたのですが、鎌倉足利と引き續き朝廷がだん/″\衰微して來るといふと、伊勢の大神宮にいろ/\差上げる貢物がだん/″\出來なくなつて來たのです、さうして最も烈しい打撃は應仁の亂の前後から起て來たのであります。所がさういふ時には又其時相應な智慧が出るものでありまして、京都吉田山へ伊勢の大神宮が特別に飛移られたといふことを、吉田の神主が唱へ出した。うまい處へ付け込んだもので、さうすると朝廷でも大いに負擔を免れて結構な事であるから、已に之に從はんとせられたが、伊勢の禰宜たちからやかましく訴訟して、飛移り一件は消滅したけれども、此頃から神宮は益々維持費を得ることが困難になつて來たので、そこで考へられたのが御師《オシ》等が維持策としての伊勢の講中と唱へるものであります。即ち神宮へ參詣する講であります。是は平田篤胤などの國學者の説では、佛家の方の講のしかたを應用して伊勢の講中が出來たのだといふことを言つて居りますが多分さうでせう。其講中が出來ると、朝
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