藏だけは番人を置いて立ち退いたのです。所が果して大變な騷動になりました。それで屋敷位はどうしても燒かれるだらうが藏だけは殘るだらうと思つて居りました所が、一條家の家來共の智慧は禪閤以上に出て、藏にはいゝ物があるに違ひないといふので皆引出して、書物が貴いとか舊記が大事だといふやうな事にはお構ひなく、さういふものを皆どうかしてしまつたのです。當時の記録によれば、一條家の文書七百合が街路に散亂したといふことで、それを非常に悲んだといふことでありますが、樵談治要の著述などもさういふ所から來てゐるのでありませう。又斯ういふ人の事でありますから、古い文化を如何にしてか後に傳へたいといふ考が、燒き打ちをされてなくなる際においてもあつたに違ひないのであります。
それからやはり群書類從の中にあります本で、兼良の作の「小夜の寢覺」といふものがあります、其當時現存の書籍が出來上る迄の來歴を書いたものでありますが、それには昔の修業の仕方をも書いてあります、詰り昔の文化を傳へる爲に書いたのであります。殊に私の感じたのは樂人豐原統秋といふ人の書いた體源抄といふ本でありまして、此の體源抄の體源は其の横に豐原の文字のある文字を用ゐて書名の中に豐原といふことを現はしたのであります。此家は代々笙の家でありまして、今でも其末孫が豐《ブンノ》某と言つて在りますが、此の豐原といふ人が體源抄を書いた序文を見ますと、其當時の戰爭が應仁元年正月上御靈の戰爭の頃からだん/\烈しくなつて來て、さうして天子も室町の足利の第に行幸される、それは足利に行幸されたと申しまするが、實は細川勝元が何かの時に自分の都合のために臨時行幸を仰いで取り込めておいたのであります。さういふ事からして非常に世の中が騷動になつて、樂人の祕傳などを傳へることが却々難儀でありましたが、其間において兎に角自分で非常に難儀して先祖代々の祕傳を傳へたといふことがそれに委しく書いてあります。さうして體源抄といふのはよほど大部の著述でありますけれども、それが單に音樂の祕傳を傳へるといふことばかりでなしに、何んでも自分が覺えただけのことは皆書込んで居るのであります。そして此人は法華經の信者で何かといふとすぐ南無妙法蓮華經を書いて居ります。今日から見れば殆ど著述の體裁をなさぬと言つてもいゝ位でありますけれども、實際應仁の亂に會つた人の考から見ると、少しでも昔か
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