護職始末」の如き全く反對の立場から書いたものであつて、これは明治四十四年に出版になつて居るが、實際この書が書かれたのは其の遙か以前であつたので、これを公にする迄には少からぬ困難があつたといふことを聞いて居る。この書は會津藩が京都守護職を承はつて居つて、孝明天皇が非常な御倚頼を受けて居つた事の始末を書いたものである。この書の出來る前に矢張り會津の人で北原雅長といふ人が「守護職小史」といふものを書いたことがある、然しこれは孝明天皇が如何に會津の藩士を御頼りになつたかといふ樣な機密材料は少しも載せられてなかつた。この山川浩氏の一記述が出づるに至つて初めて眞相が顯はれたのである。
又徳川慶喜公の晩年に公爵を賜はつたりなどする時には、長閥等の思想も大分寛大になつて居つた傾きがあるけれども、然し夫は澁澤男などが伊藤、山縣兩公等の間に斡旋して、頗る妥協的に再び世に出て來たのであつて、近年あらはれた慶喜公に關する記事等も、幾らかこの妥協氣分から生れて來てゐると見なければならぬものであつて、「京都守護職始末」の如く、全然維新の勝利者を向ふへ廻して、其の藩の爲めに冤枉を伸べる意氣込で書いたものとは同一に
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