るといふことがわかる。
 元治元年の騷動は長州其他の兵士が禁闕に向つて發砲し、それが會津薩摩の兵に破られ、或は戰死し或は自殺し、其統率者であつた長州三家老は、翌年幕府の長州征伐に對して服罪して自殺した。是等も當時の順逆からいへば明かに賊名を受くべきもので、而もその服罪の仕方は維新の際の東北諸藩の家老等と同樣であるにかゝはらず、これ等の人々は既に贈位の恩典に浴して居る。維新の際勝利者が便宜の爲めにした一時の處置は、別に今日から咎める必要はないけれども、維新以後五十年もたつた今日、當時の騷亂は皆單に意見の相違で、勝つたものも敗けたものも朝廷に對して叛亂を企てる意思がなかつたといふことが明白になつた以上は、其の薩長であると反薩長であるとを問はず同一の待遇を與へるべきであると思ふ。
 是は歴史上の事實の訂正ではないが、歴史上の事實としては今日迄別に官撰の維新史も出來たことはないから、如何なる態度で政府が維新史を取扱ふかといふ事は明かではないが、然し實際世に行はれて居る多數の歴史は多く薩長のために書かれたもので、所謂尊攘派の觀方によつて作られたものである。尤も其の中に故の山川浩氏の書いた「京都守
前へ 次へ
全11ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング