易疑
内藤湖南

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)本音《ほんね》

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(例)※[#「牛へん+告」、よみは「こく」、第4水準2−80−23、38−13]
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 易に關する疑問は古くは宋の歐陽修に易童子問の著あり、我邦に於ても伊藤東涯などからして新らしく研究する學者があつて、最近には我が本田成之君が、本誌上に於て作易年代考を發表せられた。それらの人々の研究は何れも皆有益なものであるが、予は其以外に近頃多少考へ得た所があり、且易の成立つ由來に就いても考へ得た所があるから、茲に其大略を述べて吾黨の士の批評を得たいと思ふ。
 抑も易に就いて歐陽修や伊藤東涯の尤も疑問とした所は十翼が孔子の作でないといふことで、殊に歐陽修が十翼を以て一人の手に成つたものでないとしたのは卓見と稱すべきである。朱子の語類にも、彖辭極精、分明是聖人所作、といつて居るから、彖辭以外が聖人の作でないと考へたとも言ひ得るのである。而してこれらのことは今日では必ずしも其意見の當否を再び吟味する必要はない程、分明なことであるが、歐陽修や伊藤東涯の已に注意した以外のことで予の少しばかり氣付いた所を擧げるならば、即ち十翼の中で比較的古いものと考へられてゐる彖傳象傳などの中に既に經文の原意を失つて特別な解釋を下したものゝあることである。尤もこれらのことは原則としては朱子なども夙に氣付いてゐたので、語類の中に、孔子之易非文王之易、文王之易非伏犧之易、伊川易傳又自是程氏之易也、と述べてゐる。但予の特に氣付いたのは、例へば大畜の卦の中で九三の爻には良馬の語あり、六四の爻には童牛之※[#「牛へん+告」、よみは「こく」、第4水準2−80−23、38−13]の語あり、六五の爻には※[#「豕へん+賁」、よみは「ふん」、38−14]豕之牙の語があつて、此卦は元來獸畜の意味であつたに相違ないのであるが、それを大象には、君子以多識前言往行、以畜其徳、とあつて、畜を養ふと解してゐるが如き、是れ明かに象傳の解釋が經文の原意と一致しないのである。又革卦に於て初九に黄牛之革といひ、九五、上六に、大人虎變、君子豹變といふ辭のあるのは、明らかに皮革の革の義であるらしく見えるが、彖傳では天地革而四時成、湯武革命などゝいひ、象傳で治暦明時の義に解釋するのは、いづれも元來の意義でないやうに考へられる。又伊藤東涯は繋辭の中に包犧神農などを説いてゐることが、中庸の祖述堯舜、憲章文武の意味と合はないと述べてゐるが、一體上古帝王を數へるのに呂氏春秋尊師篇には神農、黄帝、※[#「「端」のつくり+頁」、よみは「せん」、第3水準1−93−93、39−6]※[#「王へん+頁」、よみは「ぎょく」、第3水準1−93−87、39−6]、帝※[#「學」の「子」が「告」、よみは「こく」、第3水準1−15−30、39−6]、堯、舜といふ順序になつてゐるから、繋辭傳に其上更に包犧を數へてゐるが如き、大體繋辭傳が呂氏春秋より新らしいものなることを想はしめるのである。元來呂氏春秋と繋辭傳とは其間に何等かの關係があるのではないかと疑はれるのであつて、呂氏春秋大樂篇に音樂之所由來者遠矣、生於度量、本卵セ一、太一出兩儀、兩儀出陰陽、とあるのは繋辭傳の太極生兩儀といふのと殆ど相似た思想である。それで清の惠棟なども既に之に注意し、其著易例の中に呂氏春秋の此文を引用してゐる。又禮記禮運も繋辭傳と關係あるらしく、其の太一と天地陰陽四時との關係を説いてあるのは、亦繋辭傳の太極、呂覽の太一を説くと類し、河出馬圖とあるは、繋辭傳の河出圖、洛出書と類し、その上秉蓍龜といひ、卜筮瞽侑、皆在左右といふは、いづれも兩者の關係を示す所の者であるから、畢竟繋辭傳、呂氏春秋並に禮運の三書は其製作の前後如何は論究せずとも、互に或る關係を持つものなることは推測し得ると思ふ。さうすれば其三書の製作せられた時代も大抵相距ること遠からざる者であるに相違ないから、恐らく繋辭傳は漢初の製作ではないかと考へられるのである。
 以上は單に前人の考へたことに就いて一二の遺漏を拾つてみたまでゞあるが、更に進んで考へてみたいのは卦辭と爻辭の成立に就てゞある。尤も此のことに就いて、例へば升の卦の王用享于岐山、とか、明夷の卦の箕子之明夷などの語から推して爻辭が文王の作でなく周公の作であるとするやうな説は、孔穎達の正義などから存在するのであるが、其他にも之と相似た疑問を提出し得る者がある。例へば蠱の卦に不事王侯、高尚其事、とあるが如き、王侯を並べいふことは予が現に記憶する材料では、史記の秦始皇本紀二十六年、及び陳渉世家等であつて、春秋以前の語とは思はれない。それから又殊に予の研究したいと思ふのは泰と歸妹との兩卦に見えてゐる帝乙歸妹の語である。帝乙といふ語は、尚書にも酒誥・多士・多方の三篇に各々一たび見えてゐる。これに就いて從來餘り深く穿鑿した人はないやうであるが、史記殷本紀に周武王爲天子、其後世貶帝號、號爲王、とあるのに對し、史記志疑の著者梁玉繩の挾んだ非常な疑問があつて、大に參考となる。即ち梁玉繩の考は、夏殷周三代の君は皆王と稱し、まゝ亦后と稱することもあつたが、未だ帝と稱したことあるを聞かぬ。夏殷の君に帝の字を用ゐたのは史記に始まる。而して史記殷本紀のこの解釋によれば、帝王には其稱號の如何によつて高下の相違があるやうであるが、古書には決して左樣なことは見えてゐない。又帝乙といふものがあるからとて夏殷の君が皆帝と稱したとも思はれない。此誤は國語周語に祖甲を帝甲と記し、紂のことを帝辛と記してゐる所から起つたのであるが、國語の文は全く書法の誤で之を典據とすることは出來ぬ。故に曲禮の措之廟、立之主、曰帝、の條の孔穎達の正義に崔靈恩の説を引き、生きて帝と稱したものは死して後も亦帝と稱し、生きて王と稱したものは死して後も亦王と稱したと言つてゐるが、此説が一番確實である。それで要するに帝乙といふのは即ち其人の名であつて、決して廟號ではない。魏の崔鴻の十六國春秋に、西秦の乞伏熾盤に折衝將軍信帝ありとあるが、これなども信帝といふのが其人の名なのであつて、丁度帝乙といふのが單に帝乙といふ名に過ぎないのと同じことであると。これが大體梁玉繩の意見である。折衝將軍信帝を例に擧げたことなどは隨分牽強に過ぎて取るに足らぬけれども、兎も角夏殷の君を帝と稱すること、並に帝乙の稱に就いて種々疑問を起したのは大に參考に値する。予の考ふる所では帝の字の原義は上帝であつたと思ふ。尚総^範に帝が禹に洪範九疇を錫へたとある帝の字は古來天帝と解してゐる。呂刑の中に見ゆる帝或は黄帝の字は帝※[#「「端」のつくり+頁」、よみは「せん」、第3水準1−93−93、40−18]※[#「王へん+頁」、よみは「ぎょく」、第3水準1−93−87、40−18]若しくは帝堯、帝舜と解せられてゐるが、今文家は之を天帝と解して居る。前に引用した曲禮の語でも鄭玄は帝の字を天神と解してゐる。思ふにこれが帝の字の原義であつたに相違ない。然るに戰國の頃七國共に其國君を王と稱するやうになつてから、王の稱號が段々輕くなつた爲に、何かそれ以上の稱號を求める傾向を生じて來て、遂に秦の昭王、齊の※[#「緡」の「糸へん」が「さんずい」、よみは「びん」、第4水準2−78−93、41−3]王に至つて同時に東帝西帝と稱し帝號を取るやうになつた。これが恐らく帝の字を實在の君主に用ゐるやうになつた最初であらう。而して此後秦始皇に至つて自ら皇帝とも稱した。尚書堯典に帝の字を實在の君主に用ゐたのも、いづれ此頃のものなのであらう。それから又公羊家の考で天子が崩ずれば存して三王と爲り、※[#「糸へん+出」、よみは「ちゅつ」、第4水準2−84−18、41−6]滅すれば五帝と爲り、下つて附庸に至り、※[#「糸へん+出」、よみは「ちゅつ」、第4水準2−84−18、41−6]して九皇と爲り、下つて其の民たるに極まるといふ説が現はれてきたので、遂に夏殷の君主を帝と稱するに至り、司馬遷も其意味からして夏殷の本紀に帝の字を用ゐたのであらう。さう考ふれば問題の帝乙といふ語は少くとも秦昭王と齊※[#「緡」の「糸へん」が「さんずい」、よみは「びん」、第4水準2−78−93、41−8]王とが相共に帝と稱した時代より以前に溯ることが出來なくなつてくるので、畢竟易の爻辭の中には戰國の末から漢初に到る間に出來た語さへも含んでゐることを認めねばならないやうになるのである。史記の春申君列傳に春申君が秦の昭王に説くに、易を引いて狐渉水濡其尾といひ、戰國策には狐濡其尾に作つてあるが、今の易の未濟卦には小狐※[#「さんずい+乞」、よみは「きつ」、41−11]濟濡其尾とあることを王應麟の困學紀聞に指摘して居る。戰國の時、爻辭が今易の如く一定して居なかつた證とすることが出來る。
 王應麟は又禮記の坊記に不耕穫、不※[#「くさかんむり」の下に「輜」のつくり、よみは「さい」、第3水準1−91−1、41−14]※[#「余」の下に「田」、よみは「よ」、第4水準2−81−29、41−14]、凶、とあり、荀子非相篇に括嚢、无咎、无譽、腐儒之謂也、とあり、左傳の襄公九年に穆姜が元亨利貞を隨の四徳とした語のあるのを引いて、是説を爲す者は未だ彖象文言を見ざるかといつて居る。此等も彖象文言の古くないことを見はす者であるが、又爻辭に九六の字を用ゐたに就いても其餘り古くないことが考へられる。即ち左傳や國語に引かれてある易の語には九六の字が使用されてゐないで、皆之卦を以て占ふことになつてゐる。尤も左傳には一ヶ處艮之八といふのがあり、國語には一ヶ處泰之八があり、得貞屯悔豫皆八也、といふこともあるが、これは九六の變ずる爻を以て占ふ者とは異つた法だといはれて、古來その解釋が徹底しない。要するにこれによつて左傳や國語に載せられてゐる卜筮法の傳來には未だ數に關する考が著るしく表はれてゐないことが分る。惠棟の易例にも古文の易の上下には本と初九初六及び用九用六の文なし、説者は初九初六皆漢人の加ふる所といへども、孔子の十翼には、坤の六二の象傳、大有の初九の象傳、文言の乾元用九、坤の用六の象傳等に九六の字があるから、孔子の時から有るといつて居るが、これは易の數に關する考は十翼の作られた頃に起つたものといふことを明らかにするのみで、それ以前には存在せなかつた證據ともすることが出來る。
 それから又繋辭の中に君子所居而安者易之序也、所樂而玩者爻之辭也、とあつて、此の序といふのは恐らく序卦の意味をもつものと思はれるから、序卦と繋辭との間には何等かの關係があつて作られたものではなからうかと考へられる。而して序卦の思想は各々の卦の意義を説くに就いて説卦や雜卦と大分相違するやうに思はれる。雜卦の順序が序卦と異なることに就いては、晉の干寶などからして已に注意せられ、又其の末尾の大過顛也以下數句が錯簡であるらしいとは、鄭玄、朱子なども注意した所であるが、しかし朱子は其の協韻の方から考へると錯簡らしくもないと言つて居り、蔡氏は協韻に差支へないやうに錯簡を改正して居るが、此の改定によつても、全體の順序が序卦と異なることは疑はれない。序卦は昔から其の淺薄を疑はれて居るものであるから、説卦や雜卦の方が古くからあつた各卦の原意を傳へてゐるのではないかと思はれるので、繋辭と序卦とはそれよりも晩く作られ、而して其作られた時代が大體爻辭の作り上げられた時代と同時だとすれば、爻辭の完成されたのは餘程晩い時代とならなければならぬ。予は嘗て本誌上に於いて説卦が爾雅の六畜の部と關係のあることを述べたことがあるが、それらの作られた時代よりも繋辭や序卦の作られた時代は更に降ることゝ思ふ。而して爻辭が現在の形にまとめられたのも或は漢初の頃ではないかと考へる。畢竟予の考ふる所は繋辭にある數の思想とそれから元來の易の意義に近い象即ち説卦が主として説いてゐる思想とは本來別々のも
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