のであつたのが、繋辭の製作せられる時になつて一に纏められたとするのである。而して斯く數の思想を元來の易から切離して見るとなると、更に其處に種々な疑問が起つてくるのである。
 予が易の上下兩經を讀んで尤も疑問としたことは各卦の本來の成立ちである。一體易の各卦は多くは其の爻辭には卦名を幾種かに分類したやうな形になつてゐるのが普通である。例へば乾卦は卦名には龍とはないので、朱子の語類に、如乾之六爻、象皆説龍、至説到乾、却不爲龍といつて説卦の説き方と爻辭との矛盾に注意してあるが、今姑らく之を龍の卦とすると、其爻辭の中に潛龍・見龍・飛龍・亢龍・群龍と五種を含んでゐる。其他蒙卦には發蒙・包蒙・困蒙・童蒙・撃蒙、臨卦には咸臨・甘臨・至臨・知臨・敦臨、復卦には休復・頻復・獨復・敦復・迷復、井卦には井泥・井谷・井渫・井甃・井洌・井收、兌卦には和兌・孚和・來兌・商兌・引兌をそれぞれ含んでゐるが、其中井卦を除く外は皆その卦名をもつものを各々五種づゝ含んでゐるのである。それから又需卦の需于郊・需于沙・需于泥・需于血・需于酒食、咸卦の咸其拇・咸其腓・咸其股・咸其※[#「にくづき+毎」、よみは「ばい」、43−10]・咸其輔頬舌、困卦の困于株木・困于酒食・困于石・困于金車・困于赤※[#「拔」の「手へん」が「糸へん」、よみは「ふつ」、第3水準1−89−94、43−11]・困于葛※[#「くさかんむり」の下に「壘」から「土」を取る、よみは「るい」、第4水準2−87−9、43−11]于※[#「自」の下に「木」つくりに「危」、よみは「げつ」、43−11]※[#「兀+危」、よみは「ごつ」、43−11]、艮卦の艮其背・艮其趾・艮其腓・艮其限・艮其身・艮其輔、漸卦の鴻漸于干・鴻漸于盤・鴻漸于陸・鴻漸于木・鴻漸于陵、渙卦の渙奔其机・渙其躬・渙其群・渙汗其大號・渙其血などの如く卦名をもつものが各々三字以上の語で組立てられてゐるものもある。猶これらは困卦、艮卦を除く以外は亦皆五種づゝを含んでゐるのであるが、此例を推すと四種宛を含むものに同人・謙・豫・頤・遯・節などの卦があり、三種宛を含むものに履・蠱・觀・[#ここから割り注]これは見方によつては五種ともなる[#割り注終わり]賁・剥・蹇・歸妹・豐などの卦がある。それで以上のことから起る疑問は凡て六爻から成立つ各卦に於て卦名を含んだ所の爻辭の中に云はゞ爻名とも稱すべきものが困、艮、井の三卦を除くの外何れも六種揃つたものゝ無いことである。これを數の思想から易を切離して考へることゝ相關係せしめて推測すると、本來の易は必ずしも各卦六爻から成立つたものではないやうに思はれる。尤も中には坤卦の如く卦名を爻辭に含まないで、履霜・直方・含ヘ・括嚢・黄裳の如く押韻した語から出來上つてゐるものもあるが、これも矢張り大體五種になつてゐる。[#ここから割り注]この直方は直方大で句とすれば韻に協はないことになるが、象傳の解釋に據ると直方で句とすべきである。[#割り注終わり]かうなつてくると、今度は又現在の各卦の卦名が果して本來のものであるか如何かゞ大分恠しくなつてくる。既に乾卦は爻名が五種共に龍の字をもつてゐるが、乾の字を含んでゐるのは僅に九三の君子終日乾乾といふのがあるのみである。それから又包荒・包承・包羞の三つの爻名は泰・否兩卦に跨つてゐる。又※[#「尸+彳+婁」、よみは「く」、第4水準2−8−20、44−5]校滅趾・噬膚滅鼻・何校滅耳・過渉滅頂の如き相類似の語のものが噬※[#「口へん+盍」、よみは「こう」、第4水準2−4−22、44−5]と大過の兩卦に跨つて居り、壯于趾・壯于前趾・壯于※[#「九+頁」、よみは「きゅう」、第4水準2−92−18、44−6]の三種が大壯と夬との兩卦に跨つてゐるやうなこともある。これらは恐らく本來は相類似した語から成立つてゐる爻が一に集められてゐたのであつたものを、後になつて六十四卦に整へられるに際し、斯くは錯亂を來したのではないかと思ふ、それで若し以上考ふる如くなれば、元來易の各卦は必ずしも六爻から成立つてゐないことになり、自然又六爻即ち三畫の爻を二つ重ねた現在の卦の基礎を失ふことになるから、易の全體が六十四卦から成立つことも必ずしも必要でなくなるのである。故に易の本來の形式は各卦五種づゝの爻をもつたもので、前に擧ぐるが如き四種或は三種のものは其の殘缺したものと見るか、或は又必ずしも各卦同一の爻數を含むとは定まつてゐなかつたと見るか、その何れかに考へられよう。以上予が現存の易の經文を讀んで起し得た所の疑問であるが、更に別な方面から易の成立ちに就いて考へてみよう。
 先づ洪範に載つてゐる筮法によつて考へる。即ち洪範には筮法として貞悔の二法丈けを擧げてゐるが、現在の易では吉、凶、悔、吝、無咎、※[#「厂+萬」、よみは「れい」、第3水準1−14−84、44−15]といふやうに判斷の方法が増加されてゐる。而して貞の字の如き現在の易では既に洪範の筮法の意味を失つてゐるのである。一體貞の字は勿論のこと、筮に關係した占とか卦とかの字は總て卜の字に從ふてゐるのであつて、悔の字の如きも本來は※[#「毎+卜」、44−17]と書いて矢張り卜の意味を含んでゐる。殊に貞の字は説文によつても、或は現存の龜板文によつても、卜問の意味の字なので、これは卜法に用ゐられた時の原義であるが、易に於ては之を正若しくは貞固の意味に變じ、元亨利貞の四字を四徳とさへも解するやうになつてゐる。元亨利貞を四徳と解すべきや否やは既に歐陽修も疑問を挾んだのであつて、象傳では元の字は上に附いて乾元・坤元といふ語に組立てられてゐるのに、文言では四徳と解してゐるのは如何したものかと恠しんでゐる。其上猶疑問となるのは利貞といふことである。これは恐らく本來は卜問者に利ありといふ意味であつたのが、後になつて其意味が變化し、貞を正と解し、正しきに利しと訓み、更に各々獨立して四徳の一となつたものらしい。以上のやうな點からして、元來卜法に用ゐられた文字を、後に筮法が卜法の語を竊みとつて出來たことゝ推測し得るのであるが、それでは筮法の本來は如何なるものであつたかを考察すべき必要が生じて來る。
 一體筮の字は説文には筮易卦用蓍也、从竹※[#「工」の左右に、上に「人」下に「口」、そしてその下に「十十」、45−8]、※[#「工」の左右に、上に「人」下に「口」、そしてその下に「十十」、45−8]古文巫字とあり、段玉裁は之に注して从竹者蓍如※[#「竹かんむり」の下に「弄」、よみは「さん」、第3水準1−89−64、45−8]也、※[#「竹かんむり」の下に「弄」、よみは「さん」、第3水準1−89−64、45−8]以竹爲之、从※[#「工」の左右に、上に「人」下に「口」、そしてその下に「十十」、45−9]者事近於巫也、九※[#上から下に向けて「筮」「八」「口」、45−9]之名、巫更、巫咸、巫式、巫目、巫易、巫比、巫祠、巫參、巫環、字皆作巫、と言ひ、何れも筮と巫との關係のあることを見はしてゐる。尤もこの九筮の名は周禮に出て居るので、周禮の鄭注には九※[#上から下に向けて「筮」「八」「口」、45−10]の名に附いてゐる巫の字を盡く筮の字の誤であるとし、九※[#上から下に向けて「筮」「八」「口」、45−11]の一々を其字義によつて解釋してゐるが、此説は近年孫詒讓によつて改正せられた。即ち孫詒讓の周禮正義には劉敞、陳祥道、薛季宣等の説に從ひ、九巫の巫を字の如く讀み、巫更以下を皆古への筮に精しき者九人の名とし、又その中の巫咸と巫易とを特に指摘して、巫咸は世本に見える作筮の巫咸であり、巫易は巫昜の誤で即ち楚辭招魂に見える巫陽であると考へたのである。これは洵に孫説の通りであつて、之によつて周禮若しくは説文の頃までは巫と筮との間に關係を明かに認めてゐたことが分る。それで予の考ふる所では本來筮なるものは巫の用ひた御籤の如きものであつて、委しく云ふと各々の卦に相當した御籤があつて、更に其の御籤の中で四種とか五種とかに分けられた小名があり、之を占はんとする者は其の御籤を引いてそれに出てくる幾つかの小名――それが即ち爻辭に相當するのである――に依つて巫から判斷して貰つたものであらうと思ふ。而して此の筮法は殷代の巫の職の貴かりし時は別として、周代以後は龜卜の如く天子や諸侯などの貴族階級の人の用ゐるものではなく、寧ろ一段低い階級の間に占ひの方法として用ゐられてゐたのであらう。所が春秋戰國以後下級民衆の發達につれて、民衆を相手とする此の筮法が漸次盛になり、其術を傳ふる者は之に種々故事を附會して以て自己の術を重からしめる爲めに、遂に左傳や國語に見えるが如き幾多の説話を作り出し、時としては爻辭の中にuの高宗とか箕子とか將た文王とかの事をさへ取入れるやうになつたのではあるまいか。朱子の語類には、凡爻中言人者、必是其人嘗占得此卦といひ、帝乙歸妹、箕子明夷、高宗伐鬼方の類を其例として擧げて居るが、少し穿ち過ぎて居るやうである。それから更に進んでは繋辭に見えるが如き數の思想が一方に生じてくると共に陰陽を基礎とした卦を以て其形を表はすことが始まり、遂にそれらが合して一の哲學的基礎を與へるやうになつたのではないかと思ふ。さう考へてくると自然彖傳象傳の如き恐らく最も夙く出來たと思はれる易の理論的説明が既に卦辭爻辭と必ずしも一致しないことも恠しむに足らなくなり、其上文言、繋辭、序卦などの如く、最後に易を纏めたものは呂氏春秋や、左傳、國語の纏まつた時よりも後であつて、尤も本來の易と相距ること遠いものとなつてゐるのであることも明白になると思ふ。
 以上予は歐陽修とか伊藤東涯とかの人々が考へついた以外の點で少しばかり易に關する疑問を提出したのであるが、一體諸の經書は、多く秦漢の間になつて、今日の形に纏まつたので、其中で春秋公羊傳のみは、何休の解詁に、明白に口授相傳、至漢公羊氏及弟子胡母生等、乃始記於竹帛(隱二年)といつてあるが、これが本音《ほんね》である。されば章學誠が文史通義に、
  商瞿受易於夫子、其後五傳而至田何、施孟梁邱、皆田何之弟子也、然自田何而上、未嘗有書、則三家之易、著於藝文者、皆悉本於田何以上口耳之學也、
といつてあるのも、商瞿以來の傳授が信ぜられぬことの外、即ち田何が始めて竹帛に著はしたといふことは、恐らく事實とするを得べく、少くとも其時までは易の内容にも變化の起り得ることが容易なものと考へられるのである。それ故筮の起原は或は遠き殷代の巫に在りとし、禮運に孔子が殷道を觀んと欲して宋に之て坤乾を得たりとあるのが、多少の據りどころがあるものとしても、それが今日の周易になるには、絶えず變化し、而かも文化の急激に發達した戰國時代に於て、最も多く變化を受けたものと考ふべきではあるまいか。朱子の語類に
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六十四卦、只是上經説得齊整、下經便亂董董地、繋辭也如此、只是上繋好看、下繋[#「繋」は底本では「經」]便沒理會、論語後十篇亦然、孟子末後、却※[#「戔+りつとう」、よみは「せん」、第3水準1−14−63、47−6]地好、然而如那般以追蠡樣説話也不可曉、
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とあるのが、究竟するに先秦古書を精讀した人の僞りなき告白と看るべき者であるかも知れぬ。
(大正十二年十二月發行「支那學」第三卷第七號)[#地より1字上げ]



底本:「内藤湖南全集 第七巻」筑摩書房
   1970(昭和45)年2月25日発行
   1976(昭和51)年10月10日第2刷
底本の親本:「研幾小録」弘文堂
   1928(昭和3)年4月発行
初出:「支那學」
   1923(大正12)年12月発行、第三巻第七号
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年9月24日公開
2003年5月25日修正
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