ら、王の稱號が段々輕くなつた爲に、何かそれ以上の稱號を求める傾向を生じて來て、遂に秦の昭王、齊の※[#「緡」の「糸へん」が「さんずい」、よみは「びん」、第4水準2−78−93、41−3]王に至つて同時に東帝西帝と稱し帝號を取るやうになつた。これが恐らく帝の字を實在の君主に用ゐるやうになつた最初であらう。而して此後秦始皇に至つて自ら皇帝とも稱した。尚書堯典に帝の字を實在の君主に用ゐたのも、いづれ此頃のものなのであらう。それから又公羊家の考で天子が崩ずれば存して三王と爲り、※[#「糸へん+出」、よみは「ちゅつ」、第4水準2−84−18、41−6]滅すれば五帝と爲り、下つて附庸に至り、※[#「糸へん+出」、よみは「ちゅつ」、第4水準2−84−18、41−6]して九皇と爲り、下つて其の民たるに極まるといふ説が現はれてきたので、遂に夏殷の君主を帝と稱するに至り、司馬遷も其意味からして夏殷の本紀に帝の字を用ゐたのであらう。さう考ふれば問題の帝乙といふ語は少くとも秦昭王と齊※[#「緡」の「糸へん」が「さんずい」、よみは「びん」、第4水準2−78−93、41−8]王とが相共に帝と稱した時代より以前に溯
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