が、此説が一番確實である。それで要するに帝乙といふのは即ち其人の名であつて、決して廟號ではない。魏の崔鴻の十六國春秋に、西秦の乞伏熾盤に折衝將軍信帝ありとあるが、これなども信帝といふのが其人の名なのであつて、丁度帝乙といふのが單に帝乙といふ名に過ぎないのと同じことであると。これが大體梁玉繩の意見である。折衝將軍信帝を例に擧げたことなどは隨分牽強に過ぎて取るに足らぬけれども、兎も角夏殷の君を帝と稱すること、並に帝乙の稱に就いて種々疑問を起したのは大に參考に値する。予の考ふる所では帝の字の原義は上帝であつたと思ふ。尚総^範に帝が禹に洪範九疇を錫へたとある帝の字は古來天帝と解してゐる。呂刑の中に見ゆる帝或は黄帝の字は帝※[#「「端」のつくり+頁」、よみは「せん」、第3水準1−93−93、40−18]※[#「王へん+頁」、よみは「ぎょく」、第3水準1−93−87、40−18]若しくは帝堯、帝舜と解せられてゐるが、今文家は之を天帝と解して居る。前に引用した曲禮の語でも鄭玄は帝の字を天神と解してゐる。思ふにこれが帝の字の原義であつたに相違ない。然るに戰國の頃七國共に其國君を王と稱するやうになつてか
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