ら、王の稱號が段々輕くなつた爲に、何かそれ以上の稱號を求める傾向を生じて來て、遂に秦の昭王、齊の※[#「緡」の「糸へん」が「さんずい」、よみは「びん」、第4水準2−78−93、41−3]王に至つて同時に東帝西帝と稱し帝號を取るやうになつた。これが恐らく帝の字を實在の君主に用ゐるやうになつた最初であらう。而して此後秦始皇に至つて自ら皇帝とも稱した。尚書堯典に帝の字を實在の君主に用ゐたのも、いづれ此頃のものなのであらう。それから又公羊家の考で天子が崩ずれば存して三王と爲り、※[#「糸へん+出」、よみは「ちゅつ」、第4水準2−84−18、41−6]滅すれば五帝と爲り、下つて附庸に至り、※[#「糸へん+出」、よみは「ちゅつ」、第4水準2−84−18、41−6]して九皇と爲り、下つて其の民たるに極まるといふ説が現はれてきたので、遂に夏殷の君主を帝と稱するに至り、司馬遷も其意味からして夏殷の本紀に帝の字を用ゐたのであらう。さう考ふれば問題の帝乙といふ語は少くとも秦昭王と齊※[#「緡」の「糸へん」が「さんずい」、よみは「びん」、第4水準2−78−93、41−8]王とが相共に帝と稱した時代より以前に溯ることが出來なくなつてくるので、畢竟易の爻辭の中には戰國の末から漢初に到る間に出來た語さへも含んでゐることを認めねばならないやうになるのである。史記の春申君列傳に春申君が秦の昭王に説くに、易を引いて狐渉水濡其尾といひ、戰國策には狐濡其尾に作つてあるが、今の易の未濟卦には小狐※[#「さんずい+乞」、よみは「きつ」、41−11]濟濡其尾とあることを王應麟の困學紀聞に指摘して居る。戰國の時、爻辭が今易の如く一定して居なかつた證とすることが出來る。
 王應麟は又禮記の坊記に不耕穫、不※[#「くさかんむり」の下に「輜」のつくり、よみは「さい」、第3水準1−91−1、41−14]※[#「余」の下に「田」、よみは「よ」、第4水準2−81−29、41−14]、凶、とあり、荀子非相篇に括嚢、无咎、无譽、腐儒之謂也、とあり、左傳の襄公九年に穆姜が元亨利貞を隨の四徳とした語のあるのを引いて、是説を爲す者は未だ彖象文言を見ざるかといつて居る。此等も彖象文言の古くないことを見はす者であるが、又爻辭に九六の字を用ゐたに就いても其餘り古くないことが考へられる。即ち左傳や國語に引かれてある易の語には九六の字が使用され
前へ 次へ
全10ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 湖南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング