。それから又殊に予の研究したいと思ふのは泰と歸妹との兩卦に見えてゐる帝乙歸妹の語である。帝乙といふ語は、尚書にも酒誥・多士・多方の三篇に各々一たび見えてゐる。これに就いて從來餘り深く穿鑿した人はないやうであるが、史記殷本紀に周武王爲天子、其後世貶帝號、號爲王、とあるのに對し、史記志疑の著者梁玉繩の挾んだ非常な疑問があつて、大に參考となる。即ち梁玉繩の考は、夏殷周三代の君は皆王と稱し、まゝ亦后と稱することもあつたが、未だ帝と稱したことあるを聞かぬ。夏殷の君に帝の字を用ゐたのは史記に始まる。而して史記殷本紀のこの解釋によれば、帝王には其稱號の如何によつて高下の相違があるやうであるが、古書には決して左樣なことは見えてゐない。又帝乙といふものがあるからとて夏殷の君が皆帝と稱したとも思はれない。此誤は國語周語に祖甲を帝甲と記し、紂のことを帝辛と記してゐる所から起つたのであるが、國語の文は全く書法の誤で之を典據とすることは出來ぬ。故に曲禮の措之廟、立之主、曰帝、の條の孔穎達の正義に崔靈恩の説を引き、生きて帝と稱したものは死して後も亦帝と稱し、生きて王と稱したものは死して後も亦王と稱したと言つてゐるが、此説が一番確實である。それで要するに帝乙といふのは即ち其人の名であつて、決して廟號ではない。魏の崔鴻の十六國春秋に、西秦の乞伏熾盤に折衝將軍信帝ありとあるが、これなども信帝といふのが其人の名なのであつて、丁度帝乙といふのが單に帝乙といふ名に過ぎないのと同じことであると。これが大體梁玉繩の意見である。折衝將軍信帝を例に擧げたことなどは隨分牽強に過ぎて取るに足らぬけれども、兎も角夏殷の君を帝と稱すること、並に帝乙の稱に就いて種々疑問を起したのは大に參考に値する。予の考ふる所では帝の字の原義は上帝であつたと思ふ。尚総^範に帝が禹に洪範九疇を錫へたとある帝の字は古來天帝と解してゐる。呂刑の中に見ゆる帝或は黄帝の字は帝※[#「「端」のつくり+頁」、よみは「せん」、第3水準1−93−93、40−18]※[#「王へん+頁」、よみは「ぎょく」、第3水準1−93−87、40−18]若しくは帝堯、帝舜と解せられてゐるが、今文家は之を天帝と解して居る。前に引用した曲禮の語でも鄭玄は帝の字を天神と解してゐる。思ふにこれが帝の字の原義であつたに相違ない。然るに戰國の頃七國共に其國君を王と稱するやうになつてか
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