と建前が出来上っているようである、同じ芸術のうちでも、美術の方では特に声を大にして大衆美術だの純正美術だのという事を決して云わないが、日本の文芸だけがムキになってそれを強調している。
さて、そうなって見ると純文芸というのは一体何ものなのだ、大衆文芸とは何だ、これの定義から聞かなければなるまいが、分類はし強調はしているけれども定義としてはほとんど何物も無いのだ、ある一派の文士連が、そういう名と分類を都合上こしらえて、それを圧迫的に世間に受取らせようとする、人のいい世間は面食らいながら、それを押しいただいているという現状なのである。
しかし、折々はどうも、それだけでは済まされないという弱味が湧くと見え、その色分けや命名を試みて世間を煙に巻いたつもりでいる文士連の中から問わず語りに申訳のような言葉が洩《も》れて出て来る、その一つには「大衆文芸とは多数の為に書くもので純文芸とは自分の書きたいままを書く芸術である」と斯ういうことを云い出した者もある、これはまた随分あやふやな定義で、多数に読ませるつもりで書いた処で多数が読まなかった時は、どうなるのだ、また自分の書きたいところを書いた処で大多数
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