の中にも大衆という文字が使われていないこともないが、今日いう処の大衆という意味はそういう意味ではなく、多分大多数という意味に使われているらしい、そこでその下へ文学という文字をくっつけて見ると、所謂《いわゆる》大衆文芸というものは大多数文芸というような意味になるのであると思うが、さてここでまた問題なのは大多数をどうしようという意味の文芸なのか、大多数に読んで貰うという意味のものか大多数に読まれるという意味のものか、また大多数に調子を卸ろして大多数に媚《こ》びて見せてやろうというのか、大多数を導いて向上せしめようというつもりか、その辺甚だ曖昧千万《あいまいせんばん》である。
曖昧千万なのはそれのみではない、一体大衆文芸という、つまり大多数文芸というものがありとすれば、一方に何か少数文芸というようなものもなければなるまい、そうでなければ特に大衆などと銘をうつ必要はあるまい、そこで彼等に云わせると大衆文芸に対して少数文芸とは云わないが、別に純文芸とか、純文学とかいうものがあるのらしい、一方に純文芸なるものがあるから、それと対立差別する為に大衆文芸なる名称が与えられたのだということに彼等の分類
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