にそれが読まれた時はどうなるのだ、またある者は「大衆文芸とは道徳性を含んだもので、純文芸とは道徳性を含まぬものだ」と放言したものもある、これも不見識千万のもので、徳川時代から勧善懲悪の型に入った文芸を少しばかり解放しようとした明治初期の一派文学者の口吻をそのまま今日へ持って来たもので、道徳性そのものが何であるかという深刻な観念の一向無い者の放言である、ダンテでも沙翁でもユーゴーでもトルストイでも、凡そ今日までの世界が持った最大級の文学は皆道徳性を含んでいるのみならず、それが作の全部の根幹を成していると見られる、右等の徒輩はこれ等不朽の作物を大衆文芸視して、それよりもズット堕落し腐敗してかつ規模の小さいモウパッサンとか、ワイルドとかいうやからを純文芸というものに見立てたいのであろうと思われる。
 この点に於て、今日のジャーナリ文学というものが一般を毒し、智識階級の観念を乱していることは非常なもので、手も無く彼等の下司根性《げすこんじょう》から出でた空宣伝に乗ってしまっている、斯くて、今日一般が定義と検討とを別にして純文芸或いは大衆文芸の観念を丸呑みにしているのである。
 更に、斯ういう文
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