とに極重悪人《ごくじゅうあくにん》、無他方便《むたほうべん》の凡夫《ぼんぷ》はどうして報身報土の極楽世界などへまいるべき器ではないが、阿弥陀仏の御力なればこそ、称名の本願に答えて来迎にあずかることに不審は無い筈ではないか」
 又問うて曰《いわ》く、「持戒の者の念仏の数遍少いのと、破戒の者の念仏の数遍多いのと、往生してからその位に深い浅いがございますか」
 法然坐っていた畳を指してこれに答えて曰く、
「畳があればこそ破れたとか、破れないとかいう論があるが、畳がなければ、破れたの破れないのと云うがものは無いではないか。そのように末法の中には持戒もなく、破戒もない。凡夫の為に起された本願であるから、ただいそぎても、いそぎても、名号を称《とな》えるがよい」
 この僧が法然の膝下を辞して国へ下ろうとして暇乞いの時、法然は京みやげをあげようといって、
「聖道門の修行は、智恵をきわめて生死を離れ、浄土門の修行は愚癡《ぐち》にかえりて極楽に生ると心得らるるがよし」
 といわれた。
 それから本国に帰って深くその徳を隠し大工を職として家計を立てていたが、隆寛律師が配所へ下らるる時、この国|見附《みつけ》の国府という処に止まっていると、其処《そこ》へ近隣の地頭共が結縁の為に集って来た。その時律師が皆の者に向って尋ねるには、
「この国の蓮華寺という処に、禅勝房という聖《ひじり》が居られる筈だが」
 と尋ねたけれども、誰れも知らない。「そんな聖はございません。ただ大工の禅勝という者は居りますが」
 と答えたので、隆寛律師はどうもあやしいと思ったけれども、手紙でもって尋ねて使をやって見ると、禅勝はそれを見るや、とりあえず走せつけて来た。律師は庭に下り迎えて手をとって引きのぼせ、互に涙を流して、昔のことを話し合った。
 日頃、たたき大工だとばかりあなどっていた坊主が、斯様な高僧に尊敬されるのを見て土地の武士共が眼をまわしてしまった。その後は国中の貴賤、尊み拝みて大工もして居られなくなったから、広く念仏の布教をするようになった。生年八十五歳の正嘉二年の十月四日立派な念仏往生をとげた。
 俊乗房重源は、上の醍醐の禅定で、真言宗に深かったが、法然の徳に帰してその弟子となった。大原談義の時も、門弟三十余人を連れて列席した。治承の乱に南都東大寺が焼失した。重源がその造営の大勧進に補せられた。総てに於て計画にぬかりのない人であったから、時の人に「支度第一俊乗房」と称せられていた。
 建久六年三月二十日造営の功を了《お》え、供養をとげられた。天子の行幸があり、将軍頼朝も上洛した。法然の勧化《かんげ》に従って念仏を進め、上の醍醐に無常臨時の念仏をすすめ、その他七カ所に不断念仏を興隆した。
 建久六年六月六日東大寺に於て往生した。

       四十六

 鎮西《ちんぜい》の聖光房弁長(また弁阿)は筑前の国加月庄の人であったが、十四の時天台を学びその後叡山に登り、一宗の奥義を極めたが、建久八年法然六十五、弁阿三十六の時吉水の禅室にまいり、法然の教えを聞いたが、その時心の中で思うよう、「法然上人の智弁深しと雖も、自分の解釈する処以上に出でる筈がない」と。そこでまず試みに浄土宗の要領を叩いて見ると、法然が答えて、
「お前は天台の学者であるから、まず三重の念仏を分別して聞かせよう」
 と数刻に亙《わた》って細々と念仏の要旨を説き聞かせたので聖光房の高慢の心が直ちに止み、長く法然を師として暫くも座下を去らずに教えを受けた。
 建久九年の春には法然から撰択集を授けられ、
「汝は法器である。これを伝持するに堪えている。早くこの書を写して末代にひろむべし」
 と云われたそうである。
 同年八月に法然の命を受けて、伊予に下りて又帰洛し一宗の奥を極め、元久元年八月上旬に吉水の禅室を辞して、鎮西の故郷に帰り、浄土宗を隆《さか》んにした。
 安貞二年の冬肥後国往生院で四十八日の念仏を修した時に、後の人の異義を戒めんが為に、一巻の書を著した。「末代念仏授手印《まつだいねんぶつじゅしゅいん》」といいよく法然相伝の義を伝えた。
 筑後の国高良山の麓に厨寺《くりやでら》という寺があった。聖光房がそこで一千日の如法念仏を修した処、八百日に及んだ頃、高良山の大衆《だいしゅ》が、「この山は真言の宗旨だ。この山の麓で専修念仏はけしからん。念仏の輩を追い出せ」という評議が決まったが、聖光房は心を決めて待ち構えていると、その翌日思いの外一山の大衆がいろいろの供物を捧げてやって来たというような話もある。
 筑後の国山本郷という処に善導寺という寺を建てたが後には改めて光明寺と名づけ一生ここで念仏伝道した。
 この人は毎日六巻の阿弥陀経、六時の礼讃時をたがえず、又六万遍の称名怠ることなく、初夜のつとめを終って一時ばかりまどろんだ後起き出でて夜明くるまで高声念仏が絶えることがなかった。常に云うには、
「人がよく閑居の処を高野とか粉河《こかわ》とか云うけれども、わしは暁のねざめの床程のことは無いと思う」
 又|安心起行《あんじんきぎょう》の要《かなめ》は念死念仏にありといって、「いずるいき。いるいきをまたず。いるいき。いずるいきをまたず。たすけたまえ。阿弥陀ほとけ。南無阿弥陀仏」と常に云っていた。
 嘉禎四年二月二十九日様々の奇瑞のもとに七十七で大往生をとげた。霊異のことが数々あるけれども記さず。
 勢観房源智は、
「先師法然上人の念仏の義道をたがえずに申す人は鎮西の聖光房である」といわれた。そこで勢観房の門流は皆鎮西に帰して別流を樹てなかったということである。
 そのほか安居院《あぐい》の聖覚法印、二尊院の正位房なども自分の宗義の証明には聖光房をひき合いに出したそうである。聖光房の門流を「筑紫義《つくしぎ》」という。

       四十七

 西山の善恵房澄空は入道加賀権守|親季《ちかすえ》朝臣の子であったが、十四歳から三十六歳まで、二十三年の間法然について親しく教えを受けた。
 この人は弁論の巧者の処があった。自力根性の人に向って、白木の念仏ということをよく云って、自力の人は念仏をいろいろに色どっていけない。色どりのない念仏往生のことを知らない。というようなことを説いた。
 津戸三郎は上人が亡くなってからは、不審のことはこの善恵房に尋ねた。関東にはその教化消息が伝わっている。
 この聖は非常に恭敬な修行者で、何か不浄のある時などは四十八度も手を洗ったことがある。毎月十五日には必ず二十五|三昧《ざんまい》を行じ、見聞の亡者をとぶらい、有縁無縁を問わず、早世の人があれば忌日には必ず忘れないで阿弥陀経を読み、念仏をしてねんごろに回向《えこう》をした。
 西山の善峯寺から、信州善光寺に至るまで十一カ所の大伽藍を建て、或は曼陀羅《まんだら》を安置し、或は不断念仏をはじめて置く。これにみんな供料、供米、修理の足をつけて置いた。これとても全く勧進奉加《かんじんほうが》をしないで諸人の供養物をなげうってこう云うことをしたのである。
 宝治元年十一月二十六日年七十一歳でこれも様々の奇瑞のもとに大往生をとげた。

       四十八

 法性寺の空阿弥陀仏はどこの人であったかわからないが、延暦寺に住んでいた坊さんであったが、叡山を辞して都に出て法然に会って一向専修の行者となって経も読まず礼讃も行わず、称名の外には他の勤めなく在所も定めず、別に寝所というてもなく、沐浴便利の外には衣裳を脱《と》かず、それでも徳があらわれて人に尊まれた。ふだん四十八人の声のよいものを揃えて七日の念仏を勤行し、諸々《もろもろ》の道場至らざる処なく、極楽の七重宝樹《しちじゅうほうじゅ》の風の響、八功徳池の波の音をおもって風鈴を愛し、それを包み持ってどこへでも行く度毎にそれをかけた、又常に、
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如来尊号甚分明《にょらいそんごうじんぶんみょう》。十方世界普流行《じっぽうせかいふるぎょう》。但有称名皆得往《たんうしょうみょうかいとくおう》。観音勢至自来迎《かんのんせいしじらいごう》。
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 の文を誦して、「ああ南無極楽世界」といって涙を落したという。
 念仏の間に文讃をいろいろ誦することの源はこの人からはじまった。四天王寺の西門内外の念仏はこの聖《ひじり》が奏聞を経てはじめておいたものである。
 法然が常に云うには、
「源空は智徳をもって人を教化せんとするがなお不足である。法性寺の空阿弥陀仏は愚癡《ぐち》であるけれども、念仏の大先達として普く化道が広い。わしが若し人身を受けたならば大愚癡の身となって、念仏勤行の人となりたい」といわれた。
 空阿弥陀仏は法然をほとけの如く崇敬していて右京権大夫隆信の子左京大夫信実朝臣に法然の真影を描かせ一期の間本尊と仰いでいた。知恩院に残っている絵像の真影がそれである。
 往生院の念仏房(又念阿弥陀仏)は叡山の僧侶で天台の学者であったが、これも法然の教えを聴いて隠遁して念仏を事としていたが、法然滅後念仏に疑いが起ってもだえていたが、或る夜の夢に法然を見て往生の安心が出来たという。承久三年嵯峨の清涼寺が焼けたのをこの聖が造営した。その西隣りの往生院もこの聖が建てたものである。建長三年十一月三日年九十五で大往生をとげた。
 真観房感西(進士入道)は十九の時はじめて法然の門室に入り、多年教化を受けていたが、撰択集を著わす時もこの人を執筆とした。又法然が外記大夫と云う人より頼まれて導師となった時も一日を譲ってこの真観房に勤めをさせたようなこともあったが、惜しいかな正治二年|閏《うるう》二月六日生年四十八歳で法然に先立って死んでしまった。法然はおれを捨てて行くかといって涙を落したとのことである。
 石垣の金光坊は浄土の奥に至っているということを法然から賞《ほ》められていた人であるが、嘉禄三年に法然の門弟と国々へ流された時|陸奥《むつ》の国へ下ったが遂にそこで亡くなられたから、その行状が広く世に知られていない。

 大体以上の如く主なる法然の門下或は宿縁ある人の行状を記し了った。この外法本房行空、成覚房幸西は共に一念義をたてて法然の命に背いたにより破門されてしまった。覚明房長西は法然が亡くなってから出雲路《いずもじ》の住心房にとどこおり、諸行皆本願であるというような意見になって撰択集に背いてしまった。この三人とてもなかなか立派な処のある人であるけれども、法然の遺志を慮って門弟の列に載せないことにした。見る人それをあやしまれないように。



底本:「中里介山全集第十五巻」筑摩書房
   1971(昭和46)年8月30日発行
入力:山崎史樹
校正:小林繁雄
2010年3月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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