となったが、同朋同行の多い処では煩いが多いから、誰れも知らない処へ行って静かに念仏をしようと思って、諸方を尋ね歩き、河内国讃良という処の尾入道という長者の土地へ住むことに定め、それから又京都へ登って来て所持のお経などを人に頒ち与えてしまい、ただ水瓶ばかり持って法然の処へ来て隠居をすることを物語り、
「この世でお目にかかるのは只今ばかり、再会は極楽で致し度うございます」
 といって出て行った。法然はその心任せにして、時々あれはどうして暮しているかなどという噂をしたが、三年経つとこの僧がひょっこりやって来た。法然が驚いて、
「どうしたのだ」
 と尋ねると、西仙房が云うことには、
「そのことでございます。あちらへ隠居しまして、はじめの年位は心を乱ることがなくよく行い済ませましたが、この春あたりから、つれづれの心が出て来て、煩《うる》さいと思っていた同朋同行や、親しかった間の者などが恋しくなり、余り徒然《つれづれ》にたえぬまま、あの時持っていたお経でも開いて見たならばこの心をなぐさめるよしもあったろうと人に頒ち取らせたことさえ後悔せられて、果ては時々来る小童などにそぞろごとを云いかけては心をなぐさめていたが、愈々徒然の心が旺《さか》んになって、故郷を思う心ばかり多く極楽を願う心は少なくなってしまいました。これでは全く予期する処とちがった無益の住居と思って、折角好意を持ってくれた地主の尾入道にも辞《ことわ》りも云わないで逃げ上って来ました」
 法然はその率直な言葉を喜んで、
「道心のないものにはこの心は無いことだ」
 といって賞めた。
 それから西仙房は姉小路、白川祓殿の辻子という処に妹の尼さんが住んでいた。庵の後ろに廂《ひさし》をかけて自分の身一つが納まるだけに藁《わら》でもって囲いをして、そのうちに籠って紙の衣を着て、食時便利の外には一向に念仏をしていた。小さな土器《かわらけ》を六つ並べて香をもり、火を消さず、とり移しとり移して、念仏して、人にも会わなければ全く別世界を劃していたが、元久元年の冬|臨終正念《りんじゅうしょうねん》にして端座合掌、高声念仏して息絶えた。その室内が三年程香ばしかったという。着ていた処の紙の衣によき匂いがあるので、訪ねて来たものが皆それを分けて貰って行った。最期の時には貴賤男女が沢山集って結縁したが、大番の武士、千葉六郎大夫|胤頼《たねより》それを見て忽ちに発心出家した。上人給仕の弟子法阿弥陀仏がその人である。
 嵯峨正信房湛空《さがのしょうしんぼうたんぐう》は、徳大寺の左大臣(実能)の孫であったが、これも聖道門を捨てて法然の弟子となり、一筋に浄土門へ行った。法然が流された時も、配所まで伴《とも》をして行ったが、その時船の中へ法然の像を張って置いた。それが「船のうちのはり御影」といって、後嵯峨の塔に残っていた。生年七十八。建長五年七月二十七日よき往生を遂げた。
 播磨の国朝日山の信寂房はやはり法然のお弟子であったが、明恵上人の摧邪輪《さいじゃりん》を破る文をつくり著わしたが、義理明晰をもって聞えている。
 醍醐乗願房宗源(号竹谷)は多年法然に仕えて法義をうけていたが、深く隠遁を好み道念をかくして、医者であるといって名のり又音律のことなどを人に語ったりなどしていた。けれどもその徳隠れなく、或る貴女がこの僧に深く帰依していたが、その貴女より、沈《じん》の念珠を贈られた。宗源もこれを愛して、この念珠で日夜念仏していたが誰れもこのことを知らなかった。処が或一人の修行者が雲居寺にお通夜をしてまどろんでいると堂の前へ、無数の山伏が集って何か騒いでいる。それを聞くと山伏の一人が、「あの醍醐の乗願房の救われるのをさまたげてやろうじゃないか」というと一人の山伏が「あれはなかなか信念が堅くて妨げられないが、ただ一つ貴女から貰った念珠を大事にしている。あれを種子にして一つ妨げてやろうではないか」という夢を見たので、乗願房の庵室へ訪ねて来て、それとなく尋ねて見ると、なる程その珠数をもっている。修行者は乗願房から謂《いわ》れを聞くと走り寄って乗願房の持っていた念珠を奪い取って火の中になげ込んでしまった。乗願房が驚いて尋ねると、修行者がはじめて夢のことを委《くわ》しく語ったので、乗願房は却って修行者のなしたことを喜んだという話がある。醍醐の菩提寺の奥、樹下の谷という処に長く隠居していたが、後清水の竹谷という処に移り建長三年七月三日生年八十四で往生を遂げた。

       四十四

 長楽寺の律師隆寛は、粟田関白五代の後胤、少納言資隆の三男であったが、慈鎮和尚の門弟であり、後浄土に帰して法然の弟子になった。毎日阿弥陀経四十八巻を読み、念仏三万五千遍を唱えていたが、後には六万遍になった。或時、阿弥陀経転読のことを法然に尋ねた処、
「源空も毎日阿弥陀経三巻を読みました。一巻は呉音、一巻は唐音、一巻は訓でありました。けれども今は一向称名の外には他のことはいたしません」
 といわれたので四十八巻の読誦を止めて毎日八万四千遍の称名を勤められた。
 建久三年の頃叡山の根本中堂の安居《あんご》の結願に、誰れを導師にという沙汰のあった時に隆寛がその器量であるという評判であるところが、一方には、「あれは法然の弟子となって、専修念仏を行とする上は、我が山の導師とするは不都合である」と非難するものがあったが、何分外にその人がないというわけで、異論をなだめて招請されたが、壇に上って大師草創のはじめより、末代繁昌の今に至る迄、珠玉を吐くような弁舌に衆徒が感歎随喜して、その時はまだ凡僧であったけれども、東西の坂を輿に乗って上下することを許された。
 法然が小松殿の御堂に在《あ》った時、元久元年三月十四日律師が訪ねて行った。法然は後戸《しりど》に出迎えて、懐《ふところ》から一巻の書を取り出して、
「これは月輪殿の仰せによって選び進ぜた処の撰択集である。善導和尚が浄土宗をたてた肝腎が書き記してある。早く書き写して見なさるがよい。若《も》し、不審があらば尋ねおききなさるがよい。但し源空が生きている間は秘密にして置いて他見せしめないように、死後の流行は已《や》むを得ない事だが」
 といわれたので、急いで尊性、昇蓮等に助筆をさせて、それを筆写し、原本は返上されたことがある。
 並榎の竪者《りっしゃ》定照が訴えにはじまって法然の門徒が諸国へ流されるうちに、この律師は最も重いものとして見られていて、自分も覚悟していたが、果して配所は奥州ということであって森入道西阿《もりのにゅうどうさいあ》というものが承って配所へ送ることになり、嘉禄三年七月五日都を進発したが、森入道は深く律師に帰依していたので、そっと門弟の実成房というものを身代りに配所へやって、律師は西阿が住所相模の国飯山へ連れて行き、そこで大いに尊敬して仕えていた。同年の冬、病にかかった時筆を執って身の上のことを書き起したが、それを羈中吟《きちゅうぎん》という。間もなく春秋八十歳で念仏往生を遂げた。
 この律師が鎌倉を立って飯山へ下った時に武州|刺史朝直朝臣《ししともなおあそん》、その時二十二歳、相模四郎といったが、律師の輿の前で対面して仏道のことを尋ねている。刺史朝直朝臣はその教えを聴いて真実の信念を起し、毎日六万遍の念仏を誓ったという、この律師、道心純熟し、練行積って三昧発得《さんまいほっとく》の境に達した。この律師の教風を「多念義《たねんぎ》」とも、「長楽寺義《ちょうらくじぎ》」とも云う。
 遊蓮房円照は入道少納言通憲の子、二十一歳にして発心出家、はじめは法華経をそらに覚えて読誦していたが、後には法然の弟子となって一向に念仏する。法然も、
「浄土の法門と遊蓮房に会ったことは、人界に生を受けた思い出である」
 といわれたそうであるからなかなか堅固な行者であったろうと思う。

       四十五

 勢観房源智は備中守|師盛《のりもり》の子、小松内府重盛の孫であって、平家が滅びた後、世を憚《はばか》って母御がこれを隠していたが、建久六年十三歳の時、法然の処へ進上した。法然はこれをまた慈鎮和尚に進上せられ、そこで出家をとげたが幾許《いくばく》もなく又法然の処へ帰って十八年間を通じて常に給仕をしていた。そこで法然もあわれみが殊に深く浄土の法門を教え、円頓戒《えんどんかい》を附属した。そこで道具、本尊、房舎、聖教、皆相続されることになった。法然の最期の時が近づいた際に勢観房は、
「年頃お教えにあずかって居りますが、なお肝腎のところを御直筆で一つ残して置いていただきとうございます」と願った。そこで法然が筆をとって書いたのが上人の「一枚消息」、所謂《いわゆる》一枚起請である。
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もろこし我朝。もろもろの智者たちのさたし申さるる。観念の[#「観念の」は底本では「観然の」]念にもあらず。又学問して念仏の念をさとりなどして申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには。南無阿弥陀仏と申してうたがいなく。往生するぞとおもいとりて申すほかには。別の子細そうらわず、ただし三心四修《さんじんししゅう》など申すことの候は。決定《けつじょう》して南無阿弥陀仏にて往生するぞと。おもううちにこもり候なり。このほかにおくふかきことを存せば二尊のあわれみにはずれ。本願にもれ候べし。念仏を信ぜん人は。たとい一代の法をよくよく学せりとも。一文不知の愚鈍の身になして。尼入道《あまにゅうどう》の無智のともがらに同うして。智者のふるまいをせずして一向に念仏すべし。
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 師の法然が亡くなってからは加茂の辺りささぎ野という処へ庵《いおり》を構えて住んでいた。何故にこんな処に住んでいたかというと、その以前法然が病気の最中に、いずくよりともなく車を寄せたものがあって、中から貴女が一人降りて法然に面会した。その時看病の僧達は外出したものもあり、休息しているものもあって、勢観房だけがただ一人障子の外で聞いていると、その貴女の声で、
「まだ今日明日のこととは思いませんでしたのに、御往生が近いような様子、この上もなく心細いことでございます。さて御往生の後は念仏の法門のことなどは、どなたに申残し置かれましたか」
 と尋ねられる。法然が答えて、
「源空が所存は撰択集に載せてあります。撰択集にちがわないことを云う者こそ源空が宗旨を伝えたものであります」
 それから暫く物語りなどあって貴女は帰って行かれたが、その気色はどうも只人とは思われなかった。そこへ外出の僧達も帰って来たから勢観房は車の後を追いかけて見ると河原へ車をやり出して、北を指して行ったが、かき消す様に見えなくなってしまった。帰ってから法然に、
「只今のお客の貴婦人はどなたでございますか」と尋ねると、法然が、
「あれは韋提希夫人《いだいげぶにん》である。加茂のほとりにいらっしゃるのだ」
 といわれた。そんな因縁でこの地へ居を定められたのだが、この人は隠遁を好み自行をもととして、どうかすると法談をはじめても、所化《しょけ》五六人より多くなれば、魔縁をひくだろう、ことごとしいといって止めてしまったということである。生年五十六。暦仁元年十二月十二日に往生をとげた。
 遠江国蓮華寺の禅勝房は、天台宗を習ったが、自分の器《うつわ》ではこの教えによって救われることはなりがたいと思って、熊谷入道の処へ行って、念仏往生の道を聴いたが、熊谷が一通り教訓を加えてから、くわしいことは我師法然上人にお尋ねするがよいと手紙をくれたから、京都へ出て吉水の庵で法然の教えを受けたものである。そして法然給仕の弟子となり信心堅固の誉があった。この僧がいろいろ法然に向って不審を尋ねたに就いて、法然がよく親切に返答を与えている。その中で、
「自力他力と申すことは、如何様に心得たらよろしゅうございますか」
 法然答えて、
「わしは云い甲斐なき遠国の土民の生れである。全く天子の御所へなど昇殿すべき器のものではないが、上より召されたから二度までも殿上へ参ることになった。これと云うのは上の力である。
 これと同じこ
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