ら上品《じょうぼん》に進むというようなことを教えて行ったという奇瑞がある。
二十六
武蔵国の御家人|猪俣党《いのまたとう》に甘糟太郎忠綱《あまかすのたろうただつな》という侍は深く法然に帰依した念仏の行者であった。山門の輩が蜂起して日吉《ひえ》八王子の社壇を城廓として乱を起した時、忠綱は勅命によってそれを征伐に向った。時は建久三年十一月十五日であったが、甘糟忠綱は出陣の命を受くると共に法然の許に走《は》せ参じ、
「拙者は武勇の家に生れて戦《いくさ》をしなければなりません。戦をすれば悪心が盛んになり願念が衰えます。願念を主とすれば却って敵の為に捕虜になって永く臆病者の名を残し家の名を汚すでしょう。何れを何れとしていいか分りません。弓矢の家業も捨てず、往生の願いもとぐる道があらば願わくは一言を承りたいものでございます」
法然答うるよう、
「弥陀の本願というものは、機《き》の善悪を云うのではない。行いの多少を論ずるのではない。身の浄不浄を選ぶのでもない。時と処と縁とによらず、罪人は罪人ながら名号を称えて往生するというところが本願の不思議というものだ。弓箭の家に生れたものが
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