しの師範であった美作の観覚得業も弟子になり皆自分の師範であった人が源空を戒師として弟子となった中にも、その時代の学者という学者は大抵慈眼房が戒を授けた弟子であるのに、その慈眼房が却ってこの法然の弟子となられたのは不思議のことである」と云って様々に語り聞かせたことがある。
建仁元年のこと左衛門志《さえもんのさかん》藤原宗貞という者がその妻の惟宗の子女と共に一寺を建立し、阿弥陀を本尊にし、脇士《きょうじ》には観音と地蔵とを安置し、事の序《ついで》をもって法然に供養を頼んだところ法然が、堂の中に入って見て、
「これは源空が供養すべき堂ではない」と云うて出て了った。願主が非常に狼狽して人に尋ねて、法然上人は勢至菩薩の垂跡《すいじゃく》であるとの専らの噂のあるのに、この堂にその菩薩が無いから上人の御心に添わないのだろう。そこで急いで勢至菩薩を拵《こし》らえ地蔵を脇へ移して、その後又序を以て法然に供養して貰い、これも不断念仏の堂となり、引摂寺《いんじょうじ》というて今に残り、勢至菩薩のうしろに地蔵様が隠れているということである。
十四
大原談義は天台の座主《ざす》顕真《けんじ
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